やめられないとまらないオタク生活

漫画『げんしけん』で斑目が「オタクはなりたくてなったものじゃないからやめたくてもやめられない」と言っているが、これは立派な誤解である。ある程度オタクをやっている人なら、まわりがどんどんオタク趣味から離れていく経験はあるはず。おそらく作者はわかって斑目にこう言わせているのだろう。「やめられない」という幻想こそが、オタクを続けることに必要であり、人間の関心が変わらないことはないのに変わらないかのように思わせておくことが、オタク業界には重なのだと。

ARTIFACT 加野瀬未友
『インターネットの普及によるミーハー・薄い人の可視化と「オタクはやめられない」という幻想が「オタク世代論」を加速させる』
http://artifact-jp.com/2007/03/22/otaku_generation_theory/

慣性の動物である人間は、ある人生の対処法をずっと続けていると、あたかもそれが自分にとっての身体血肉と化したような幻想にひたってしまう。平たく言えば、方法の目的化。なぜなら、なにか新しいことにチャレンジするよりも、かってしったやり方から快楽を引き出すその方が、安全でラクだからだ。その対処法以外考えられなくなるから「オタクはなりたくてなったものじゃないからやめたくてもやめられない」と自己肯定して方法論と快楽のループは強まって濃度が増す。そして長年フィットしたそれこそが自分の本質だと思って、アイデンティファイすると共に対処法環境が整っていくこと(自分が扱う情報/コレクションが増える、生活がその探求中心に回る)をもってして自己セカイ計画は進行する。嗜癖とはそんなもん。最近、発達著しい行動経済学でも話題となっているが、理性はいつも敷衍して最適合理性を採択するのではなく、最速に確実利益を得られる方法論に意志は誘惑されつづけ、その積み重ねによって記憶は容易に嘘をつく。>id:hizzz:20051205#p2
習慣→自明→歴史伝統化ということでは、「白飯を食べないと生きていけない」とか「酒のない人生なんて」とかと一緒。しかし広い世の中では、オタク趣味も白飯も酒もない人生を送っている人のほうが、圧倒的に多い。

オタク論は世代論か履歴か

インターネットが普及するにつれ、ミーハーといわれていた人たちの声が可視化されていった。そのため、今のオタクにはミーハーが多いと見えてしまう。もはや、検証することは不可能だが、昔でも一定の比率でミーハーな人たちがいて、その比率は現在も変わらないかもしれないのだ。

「漫画やアニメは物心ついた頃にはすでにある存在だった」加野瀬さんは「昔から、ミーハーな人やオタクとして薄い人という人たちは存在していた」といって、「オタク的に物事を追求することなどを指す「濃い/薄い」というのは、世代論ではなく、「オタクとして何年続けてきたか」が生む差ではないだろうか。」と結論づける。そしてわかりやすいアーカイブを残すことを提唱。
昭和20年生まれのプレオタク世代から現在迄、オタクをめぐる社会環境が変化していないのなら、世代論ではなくオタク遍歴の違いダケで片付く。しかし社会対峙回避する対処法がオタクのオタクたる由縁でもあるならば、時代ごとに回避しなければならない対象=障害を意識してるからこそ、上記した行動様式のごとくオタクアイデンティファイも多大なる影響を受けていると考えることが出来うる。当事者が語る当事者語りには、願望や欲望=ネタがはいりこんだりして、背景を知らない者にとっては、文脈の中だけではその切り分けを見極めるのがむずかしいのであろうし、その当時&当事者的には完全にネタ=シャレであることがお約束のものが、下の世代にはベタになってしまうというのは80年代ポストモダンが右ないしは左旋回してしまった00年以降ならではかも。ひろゆきいうところの「嘘を嘘と...」という奴である。だからこそ「オタクエリートと自認する人たちがちゃんと語ってこなかった。」吉田アミさんid:amiyoshida:20070318:1174201045という感想にもなるのであろう。
純粋さと誠実が強調された『電車男』の大ヒット以降、オタク自称することに心理的にも初期には考えられない程社会的ハードルが緩くなってきたということが、まずオタク自称して他者との緩衝帯とオレ等仲間内関係性を繋ぐいう傾向に拍車をかけたということもあろう。

ミーハーとサブカル消費文化

竹熊健太郎さんが凄いオタクについて『コレクター考』として自身のブログで連載されていたが、オタクするには、情報収集力や交渉力の他に、インフラ条件として金と暇と収集保管場所が必須である。インターネットの普及の他に商業的にオタクジャンルとして回っている現在は昔程そういうことは考慮されない。現在と違う重要な点は、物のない時代の貧乏と階級支配、カルチャーとサブ・カルチャー、大人と子供の厳然たるピラミット構造である。って書くと、そのリアリティがない現代っ子には、脊髄反射サヨクイデオロギー的っていわれるんだよなー。いまでも「漫画なんかバカの読むもの」ってオタクでないプレオタク世代以上の多くの年配はフツーに言うでそ。だから履歴ぢゃなくって世代論なんだけどね。
まず昭和20年生まれが青春を送った60年代には、大学進学することは少数派でエリートだったのである。現在から見れば『巨人の星』の星一家の赤貧生活は極端に思うかもしれないが(それでも私立高校に入った星より下層階級として、貧乏人の子だくさんを背負う長男・左門が描かれてる格差社会だったんだし)多くの庶民はちゃぶ台生活で、個人部屋*1はおろか個人の勉強机*2さえ、だいたい自分の持ち物といえるものさえロクに持ってなかったのだ。貧困階級差別が土台にある『あしたのジョー』『愛と誠』や、いつも最新の電化製品に囲まれた理想リーマンの「庶民生活」が描かれる『サザエさん』など主要漫画でも題材にされてるとおり金持ちと、もっぱらエンゲル係数で計られる貧乏の生活行動様式はマジ隔絶していたのである。したから経済的利益や名誉に結びつかないコトをしてることを「金持ちの道楽」というように、自己環境下の自助努力でオタク的子宮セカイなんか到底構築できえない多数にとっては、そもそもオタク的境地にさえ到達しないで趣味に触れてもあっさり離脱するよかないのである*3
さて、それではそんな中でも当時ミーハーはいたのか?そりゃたしかにいた。加野瀬さんはその頃のプレオタクの主要メディアを漫画とされている。が、それは違うなぁ。
当時のエリート青年の最大イベの学生運動で「右手に朝日ジャーナル、左手に少年マガジン」といわれた。今や思想政治オタクは、オタクの諸種周辺ジャンル化されているのであろうが、階級に伴う文化資本差別の基に、思想哲学をそのピラミットの頂点としたら漫画は最も低俗または児童のもので金持ちや知識人の読むものではナイのである。60〜70年代文化資本の最上にある大学でその最低の漫画を読むことがカウンターカルチャーとして成り立つゆえに、上記のスローガンが出来た。んでも最上たる思想として『朝ジャ』は捨てないトコがミソだけどね。でも実はこれこそがミーハーだったのであり、本当のプレオタクはハヤリの学生運動には背をむけてひっそりと映画/SF/鉄道/切手/軍事/オーディオなどの地下活動(笑)に勤しんでいたのである。そしてそういう連中の媒体は、マニア雑誌*4や同人本*5などの活字やマニアが集うサロンや古物店や喫茶店などの寄せ書きノートや文通である。ビジュアル・マス媒体という加野瀬基準に厳格に沿えば、漫画*6ではなく映画ということになる。で、大半のミーハーはヤクザ映画や洋画、演歌歌謡曲を右から左に流して、大学エリートも『朝ジャ』は置いて『少年マガジン』はエロ本漫画に替え背広に着替えて*7余裕が出来たら「飲む打つ買う」のオヤジ道。
みんな一緒な消費文化が完成したのは、80年代になってから。一族一家より個を尊重する友達親子が出てきて、普及した電化生活によって個人自由時間が増え趣味に寛容になりTVや個室化しだしてサブカル文化が一気に花開く。多分、加野瀬さんが意識してるミーハーとは、この80年代のサブカル者のことではないだろうか。60年代から始まった漫画雑誌やTVアニメはせいぜい中学生位までの文化で、その後はオカルト/アイドル/ポップスにミーハーは瞬間的にむらがった。趣向対象を次々乗り換えて表層で戯れること、それがポストモダンスノッブだったりした。
サブ・カルチャー全体に光があたっていく中で、そういう風に「ネアカ」に変遷しない自己セカイ一筋のオタクは、従来のメインカルチャーだけではなく隣人であるサブカルチャーにまで時が止まった者として「ネクラ」「ダサい」とさんざんバカにされはじめたのである*8。そういう重層差別に直面したオタクがセカイを護るために「薄いサブカルスノッブよりも、濃いオタクスノッブのほうが道として最上」としたり「やめたくてもやめられない」と頑なに自己アイデンティファイしていく方向に向かうのは無理はない。オタクとサブカルは対立したのである。しかし89年に埼玉連続幼女誘拐殺人事件で宮崎勤が逮捕され、「5763本ものビデオテープ」*9がある自室内部写真がメディアに載り、オタク=宮崎勤と危険視されるに至る。

*1:60年代の誕生当時2DKが主流だった公団住宅が「子供部屋」を想定して3DKになったのは、70年代から。

*2:木製平机に変わって、スチールの棚付多収納「学習デスク」が販売されはじめたのは、67〜8年頃から。

*3:6〜70年代漫画は、貸本屋でこそっと借りて読むのが普通でたとえ小遣い工面の末に単行本なんか買っても、親兄弟の目がキビシいわ自己スペースもなく到底持続出来えない。

*4:活版。雑誌で写植+4色オフセット印刷が普及しだすのは80年代以降。

*5:その多くは謄写版ガリ版

*6:サンデーとマガジンが59年、ジャンプ68年、チャンピオン69年創刊。青年誌はヤングジャンプ79年で他は80年代後半以降の創刊。週刊少年ジャンブが暦代最高部数を記録したのは、95年653万部。

*7:社会人向け漫画は、サンデー59年、アクション、ゴラク67年、プレイコミック68年、ビックコミック68年創刊。

*8:無論、そゆサブカルミーハーだって上層を変換するだけで変わったと見せかけるダケで、停止した中身を享受してるのは一緒だのだったのだが

*9:収集した内容について主種雑多だった為、宮崎ははたしてオタクといえるかという考察がなされている。

オタクの功罪

加野瀬さんの当該ログでは、コレクターとオタクをわけるためにオタクをビジュアル・マス媒体中心趣向者と限定したのは、岡田斗司夫『オタク学入門』とコメントされている。
それでは岡田は何故コレクターとオタクを分けようとしたのか?はたしてそれを継承してしまうのは妥当であろうか。
何故、岡田はオタク世界から出て「オタク学」を語り、「東大生オタク化計画」をすすめる必要がでてきたのか。再掲載id:hizzz:20040319。

あれ(宮崎勤事件)がばれてしまって以来、自分がやってきたものや『マクロス』とかが真っ直ぐ見れないんですよ。
両側ふさがれちゃったんですね。俺、オウム事件のときに「またばれた」って思ったんです。「二大ばれた」なんですよ。宮崎とオウムとで。

岡田斗司夫 『マジメな話』1998年4月11日版
http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/mazime/No3.html

セクシュアリティに繋がるやおいは退け、説や論者がどこ迄ネタでどこ迄マジかとかく齟齬が起こりやすい扱いが非常にむずかしいUFOカルト心霊/擬似科学/軍事/陰謀論は、ままオウム事件等の世俗に繋がるから「闇オタ」として影にかくし、ハナから誰にもフィクションときっぱりしてるアニメを全面に出し「文学作品」としてアニメを位置づけ、PC文化とくっついたゲームが来るべき最先端マルチメディアの核となりうる幻想を膨らますことでアカデミズム権威と産業の了解を取り付けた。それで一般大衆にオタク的対処法の存続認知を計ったのが、「東大生オタク化計画」であろう。「右手に朝日ジャーナル、左手に少年マガジン」をもう一度である。
で、そのような断片化したフィクションばかりがネットを通して行き渡ったからこそ、オタク=アニオタがオタクの中核であるかのような履歴が信じられてしまう。去年の岡田のいう「オタク is Dead」が若いオタクに通じなくてネットで異論が吹き上がったのも、ネタがベタになるそういう齟齬の一つであろう。
UFOカルト心霊/擬似科学/軍事/陰謀論というのは、そのアニメが成立する重要なルーツであることが多い。しかし、そうした文脈背景を切り離して語らないことになるとすると後に語ることは、先鋭感覚的なパーツに極集中することになる。文脈背景はどうしたって、実社会や他ジャンルに触れることとなり、あまり勝手は出来ない。しかし、先端感覚的なことならば、そうした都合の悪いことは全部オミットしてセカイを構築できうる。こうして『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』としてのオタクが新たに組み上がる。それが00年以降のオタクのかろやかな願望なのではないか。

本書の主題は、ひとことで言えば、「ポストモダン、すなわち物語の力が衰えた世界において、それでも物語を語ろうとすればどうなるか」というものです。

東 浩紀 『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』


最初に書いたとおり、当事者語りには願望、身もフタもない言葉でいえば「ご都合主義」で美化されがちな点が多々ある。そして、それがネタ/嘘とわかっていても、当事者的に都合良ければそゆことにしといて後はふせておく、語りたいトコだけ語る/語って欲しいという願望をもつことは、オタクでも例外はない。なにしろそれこそが、見つけてきた自己ストーリィ、オレ的セカイ構築の方法論なのである。ただの当事者語りでも構わない。趣味って自己満足を充足させることが第一なもんだし。まとめなりなんなりは、オタク評論をしたいと思う者が自身ですべきことである。批評オタクというジャンルも成立するからヤヤコシイが、従来的作家と批評家の視点が違うように、オタク出来うるインフラを維持すること(表現の問題)と、オタク評論出来うるインフラを整備すること(表現を支える欲望構造の問題)とは、全く違う。
オタク〜ミーハー間の「濃い/薄い」は色んな遍歴を持つか否かということではなく、情報の傍証をつみかさねたり遍歴を重層的に繋げて独自セカイを煮詰めて濃くしたりせずに、狭い範囲で断片的に先鋭消費化して独自セカイは薄いままでいることであろう。上に散々書いてきた通り、時代背景とそうした多様性風説に耐え自己セカイを構築しうる生産姿勢があるかないかということであろう。それは、オタク論に限らず「半径ワンクリック」で収集〜考察を済ませる最近の断片化いちぢるしいネット言説傾向全般にも言えることでもある、複数の〈私〉でホカホカしたい情報共有の関係性に戯れる快楽が中心となって表現される独自セカイや感想がその時の他者欲望最大公約数にフラット化してくるという全体的な傾向である。
差別侮蔑の荒野を開拓し、あちこちに散らばっている断片情報を知恵を絞って収集し考察を重ねて自己のストーリィを自前でつくる(DIY)その過程にのめり込むのがオタクのオタクたる由縁であった筈なのに、参照できうるアーカイブがないないと嘆くだけならば、初期オタクからしてみればまったくもって消費一辺倒になってる只のミーハーとしか見えなかったりする。

日本アニメーション学会 http://www.jsas.net/
日本マンガ学会 http://www.kyoto-seika.ac.jp/hyogen/manga-gakkai.html

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