オバサンが「ババァ」といわれて笑ってる訳

「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なる物はババア。」といっているのになぜ石原を支持しちゃうオバサンがいるのか問題。その中で書かれているとおり、なにも公然と「ババァ」というのは慎太郎だけじゃない。中には言われて喜んで笑っていることもある。
古いトコではケーシー高峰毒蝮三太夫、最近ではみのもんた明石家さんまもそろそろこのお仲間か、女性相手に客イジリをし下ネタや毒舌やはたまた慇懃無礼なあてこすりを投げ付けるという罵倒芸風がある。伝統的にいえば一種の幇間芸。慎太郎を怒らないで受け取るほうは、そのノリと同じなのであろう。
では何故怒らないで笑っているかといえば、「…んなこといっても、誰の股から生まれてきたんだか」てな感じの孫悟空に対する観音の手のひら的絶対優越感、出産の意味と実績を体得したリアルメタ身体である中高年女性が多いということなのではないだろうか。ネットに生息する若い世代にとっては「ああはなりたくない」存在なのだろうが。そのようなリアルメタ身体を持ち得ない者は、文化だ伝統だ権威だイデオロギーだののメタストーリィをリアルにはりめぐらせることで、対峙を避けるのである*1が、ま、それは長くなるので割愛。。。>id:hizzz:20050115
慎太郎は国会議員をやめた後あたりから、自身の感情の起伏の激しい神経質なトコを、弟の破天荒役者キャラを呼び寄せることでスタンスマージンを大きくとり、「餓鬼大将」「やんちゃ」「つっぱり」イマドキ風でいうなら「ちょいワル」という芸風ストーリィを広げはじめている。が、TV前の多くのオバサンは、そんな「からいばり」にかいまみえる表情/態度の「子供っぽさ」に、老成しない若さを感じそこが魅力で許容してしまうのであろう。そして当人がそのことを一番把握してるから、作家と政治家と兄弟キャラを使い分けて臨機応変に立ち廻ってる。先の「生む機械」発言で怒られた柳沢厚労大臣は実直ぎて、そのキャラはベースにもまったくなかった。いっとくが、だから良い悪いというハナシではナイ。
※これに愛・蔵太さんからトラバ頂いたがid:lovelovedog:20070410:babaa、この発言に於ける慎太郎の真意をさぐる正しい解釈を問題にしてるのではなく、「ババァよばわりした慎太郎」という批判報道(それが正しい/不正確は兎も角)が伝わったのにもかかわらず、中高年女性にどうして許容されたのか?という派生した別の問題です。そしてそれは、愛・蔵太さんがこだわる「「ババア」発言はどうしてダメなのか」問題をなんら打ち消すものではありません。

*1:当はてダでちょこちょこ出てくる「悪い〈母〉」問題

戦後経済成長を映す慎太郎セカイ

なんでそんなに慎太郎が人を引き付けるかというと、彼が昭和の高度成長期の新中間層(都市ブルジョア)の勃興を体現しつづけてるからだ。>id:hizzz:20031128

「石原が表現してきた世界は、都市中間層の人物が中心である。湘南リゾート的で、生活の匂いがしない文化である。これは戦後のあらゆる日本人が実現したかった生活である。さらに石原には新宗教的な生々しい大衆の欲望、現世利益的な願望が流れ込んでおり、その言動が非常に突出しているようにみえて、実は大衆願望の枠組みに入ってしまう。」青木保

佐野眞一『てっぺん野郎―本人も知らなかった石原慎太郎』

厳然とした上流でも特権階級ではない石原家*1は、父親の時代から中川派を引き継いだ国会議員時代迄いってみればいつも傍系を歩いてきた。それだからこそ日本を護れなかった古色旧弊たる上流や、漢籍権威な中国や、お文化をふりまくフランスや、物量にモノいわせるアメリカに反発をしまくり、上昇して地位を脅かそうとする下層/よそ者を追い立てることで、自己のプレゼンスを計り、立位置を創る。大学在学中に父親が死亡するとたちまち行き詰まった一家の生活の為に、作家デビューをはたし、脚本を書きゴロツキの弟を売り込んで映画スターに仕立てた。それと、教科書にスミを塗り全て自分達で作り上げた「生活の匂いがしない文化」=戦後高度経済成長。その経過全てが石原兄弟ストーリィ=新中間層の上昇物語となって、「石原慎太郎」という表象がセットされている。
性別を問わず中高年にとっては「イシハラ将軍が都知事だから」支持するのではなく、正確にはウザい旧弊を打ち破ってエラくのしあがったスターだから、慎太郎と共に人生を重ねて来た自己確認/自己肯定の増幅装置だからなのだろう。
日本文化論の変容
http://web.archive.org/web/20061201023210/http://www2u.biglobe.ne.jp/~tkawaka/bunkaron.htm
慎太郎が他の政治家と違ってかくも特異な状況を創り出せたのは、祐次郎という存在を自己史の中に取り込んで再構成していくことで、作家/政治家という自己フィクションに他者身体性を加味してきたという面があるのではないか。

*1:祖父は愛媛県の警察官

アゲンストウインドになる石原批判

都知事選に関して、「浅野氏は「福祉は私の本籍地」と訴えるが、福祉政策を望む人たちが最も支持するのは石原氏。」という報道がなされてたが、これは上記したことが原因ではないか。すなわち、新中間層没落の危機がメディアをにぎわしている昨今だからこそ、単なる福祉政策ではない古き良き昭和中間層の力強い復活ストーリィを描く慎太郎に、中高年保守層は家父長的安心感と希望を強く持つ。
だからこそ「流動化/格差拡大」を主訴にして「不安」を増幅させる一方の革新市民勢/メディアは、この男にとってはまたしてもアゲンストウインドになる。慎太郎はある日突然「石原将軍閣下」になった訳ではないのと同じように、慎太郎支持の中間保守層も、ある日突然、新中間層になった訳ではない。昭和という時代をへてそれぞれの地位を獲得てきたというその事実をヌカして、『太陽の季節』の障子を破るシーンや報道される問題発言などの断片的なトピックで安易な慎太郎批判をいくら繰り返してても、それだけではこうした中間保守層は動かない。

クサっても慎太郎

という訳で、慎太郎三選である。慎太郎の対案/代案になりうる選択肢を誰も明確に示せず、マジョリティからすれば石原vs○候補ではなく石原vs反石原にしかなかったということが一番の原因であろう。しかも騒がれてる親族登用問題/経費問題は都政効果と比較しても、そう格別大きい失点にはなかった。そうなった時、最適合理性は、未知数大でどうなるかわからない候補よりも、ダメなトコがあれどある程度どうなるか先が「安定」して見える現政権維持をとる。「反石原」というのは、慎太郎と平行して成立する対立概念でしかなく、それだけでは自律した根本的政策、選択実行可能な新案とはなりえない。
TV前の中間保守層たるマジョリティにとって勝負は、告知直前の幾つかの4知事候補討論番組で決定的になっていた。怪炎プレゼンスでひっかきまわす天衣無縫な黒川紀章に、目をかがやかせて面白がるノリ良く人の良さようなオヤジ吉田万三、反省を言う口角をあげて必死に笑顔を保とうとしているが目は笑っておらずイタいトコに話がいくと途端にしょぼんとしてしまったりする表情豊な慎太郎、しかし、あやあふやではっきりしない官僚答弁に「フリーズ男」と紀章にとどめをさされてなにも切り返せずに口をへの字にして表情かたく黙り込む浅野史郎。人格イメージでも公約主張でも完全に史郎は埋没。
普段は独断専行風が「怒るなとさんざんいわれているから我慢しているが、我慢のしずぎでイライラする」と言ってはばからないさばけを見せる慎太郎や庶民的風貌でノリ良い万三が「人の意見を聞いてやってきます」と言うのと、エリート官僚がそう言うのとでは、たとえそれがまったくもって「政治的に正しい」主張だとて伝わり方は180度違う。大体、官僚の「考えます/善処します」は、考えないで放っといてほとぼりがさめた頃に前方針に倣うだしね。他との差別化に史郎は、借りてきた市民スタイルではなく、エリート然として「有能/実務派/バリバリ仕事します」を全面表現すべきだったのである。しかしそれも都政内容に踏み込んで語れないのなら、ダメである。人柄やイデオロギーだけでは運営を託せない。多様な人々が層をなす都市マジョリティは、プラグマティズムなのである。都民1000万の最大公約有益的プラグマティク政策があった上での各種マイノリティへの個別配慮、これが数多を采配するボス戦略の王道。
ところが浅野陣営は出遅れてきたにも関わらずマイノリティを束ねていく周辺戦略に固執して先細り方針転換したものの自滅。「人の話を聞く」という割には、東京都民の地方事情というものが一番わかっていないな知らないんだという印象ばかりめだち事前準備がなされてない宮城県知事3期の実績に依存状態、それはややもすると慎太郎以上の「傲慢」に思われていたのではないだろうか。特に伝統?の革新セクト*1争い*2など、ダメな選択を重ねつづけ、負けるべくして負けたパターン。「政治的正さ」スタイル維持を固執して、多様性の中政治の重要な役割「調整」とそれにもとづくオルタ案創出を欠いた硬質指向。猛省を促したい。
さて、Wスコアで勝って慎太郎節全開だが、官僚無能をさらけだした新銀行東京問題、オリンピック招致に破れた後にナニをもってくるか等、これまでになく慎太郎は前途多難。都市開発の内情を把握してる筈の紀章が指摘したのにマスメディアは誰もちゃんととりあげないほじくらない、三セク外部団体に次々と付け替えて帳簿上ないことになっている「隠れ借金」は、都財政にとっては一番のアキレス腱で有り続ける。なんでオリンピック誘致をブチあげて再開発を急ぐかといえば、慎太郎都政以前からのつけもあるこういう過去の累積赤字をもっと遠くにほおむる為でもあろう。本当に都政をどうにかしたいのなら反石原勢は、イデオロギー*3をたのみとした抽象的議論の精緻さにばかりかまけてないで、事実を調査し掘りさげ第三者検証に耐えうる政策提示をおこなう地に足のついた実務運動をすべきである。

*1:ノンポリ・マジョリティにとっては、共産党セクトノンセクト市民派も左翼セクトの内

*2:共産党がアタマでは勝てないから共産党は候補を取り下げて合流しろ」「先に党員以外の候補者推薦したのは共産党」社民vs共産党罵倒合戦

*3:日の丸/君が代問題については、公立に進学するのがデフォルトな地方と違い、ピンからキリまで豊富に私立がある都民にとっては公立よりも私立在籍者のほうが多い。問題は単なる「(公立)学校問題」として選択肢でスルー出来るので、生活上大きな問題点にはならない。しかも少子化も相まってさらに公立在籍当事者家庭は少数となっているので、全体的争点化にはなりにくい。