蝶よ花よ、召しませ女権

徳川幕藩体制において武士は、「家臣」として位置づけられた家臣統制策により、「家」思想が制度化された。恩給=「家録」を専有する当主=「家督」が家族を支配する「家長権」をにぎる。
封建社会における序列は、家長(父)、母(姑)、夫、妻、子(長男)の順番。「女は学問とても、男とは大にたがひ候、ただ四書、小学意ど、宜しくわきまへ條はば、姫かがみ、仮名列女伝の如きふみ、よ妄つより心をとめて見るべく候」とされてた。古くから伝わっていた劉向『列女伝』が広まったのは、こうした江戸初期だという。
以下は、山鹿素行『士道』にダブスタと物言いした貝原益軒がこしらえたとも言われている『女大学』の中の有名な箇所。

一には舅姑に従わざる女は去るべし。
二には子なき女は去るべし。これ妻をめとるは子孫相続のためなればなり。されども婦人の心正しく、行儀よくして妬む心なければ、去らずとも同姓の子を養うべし。
三には淫乱なれば去る。
四には悋気(=嫉妬)深ければ去る。
五には癩病(らいびょう)などの悪き病気あれば去る。
六には口まめにて慎みなく、物言いすぎるは親類とも仲悪くなり、家が乱れるものなれば去るべし。
七には物を盗む心あるは去る。
この「七去」はみな聖人の教えなり。女は一度嫁に入ってその家を出されては、たとえ再び富貴なる夫に嫁に入るとも、女の道に違いて大いなる恥なり。

『女大学』

同様のものには『女中庸』『女訓孝経』なんてのが。さてさて、「牝鶏晨す」だのなんでそんなにたたみかけるように、女性を追い払うのか。追い払う必要があったのか。
それが、、、あったんだよね〜。その当の幕藩体制の政治として。封建序列の中でも少しでもより良い地位・安定した陣営の中に自らを置きたいと考えるのは、世の人の常。で、なにがしかの利益連合体を取り結ぶ。しかし武力誇示・簒奪も出来なくなった太平の世の終身固定身分序列を超える一番の確実な方法は、縁組ネットワーク。藤原氏天皇外戚となって勢力拡大してからの伝統的なやり方。政略結婚。北条政子日野富子のように女性が実家勢力をもって政治支配の全面に出たケースもある。>「夫婦有別」 従来「通い婚」であった婚姻で、女性が婚家に入るようになったのは、戦国時代の人質の習慣化からとも云われている。また、江戸大奥では家光以降、正室と生母=妾(出自の低い身分)は同一人物でない分業により権力分散させていた。
さて、お輿入れといっても、江戸内大名屋敷から別の屋敷に、将軍家姫君は江戸城大奥から、お女中方々こみこみ1セットで移動するだけ。身分の高い姫君と縁組した場合(逆玉婚)、お迎え側=婚家では、その1セット込でそれなりの処遇をせねばならない。さあ、ここで、婚家内の序列にヒビが入る。婚家姑と奥方、いったいどっちがエラいか?建前は姑だが、実質はネットワークを持ってる奥方なのである。女訓なんてなんのその。1セットで移動してきたネットワーク端末である奥方は、婚家の格上権威を保つためにも、独身時代となんら変わりない生活を続けるのである。
んな中で権力采配するのは、奥方の立場を先取り忖度しまくる古参のお女中でござる。でドラマ大奥なバトルがあちこちの大名屋敷で…。かくして個々の「お家の事情」情報収集ルート、女縁ネットワークがお江戸屋敷交互にはりめぐる。裏政治を手中にしたそんなルンルン気分な大名奥方を「婚家の身上を潰すような奢侈をするな」「大名の妻ほど埒もなき者はなし」と激しく叱咤するは「修身斉家治国平天下」な荻生徂徠であったが、さりとて大奥には届かず。いやそれよりも、次のお世継は誰に決定するかなどの情報をいち早くGetしてその序列下に入る画策することが、お家安泰につながる武士・党主の第一の仕事だったりするのである。
将軍家の場合それは公家の姫君である。公武合体の名目での皇女和宮の降家は、特に有名。なんたって生の母親迄輿入れにくっついてきてる始末。かくして江戸城大奥は、江戸風と御所風の並列で合体せずまま、幕府解体。
こうした因習古参権力支配からの脱却という皇家女官問題、宮廷改革は結局明治政府も出来得ずに、裕仁まで引きずることとなる。良子との婚姻にケチがついた陰謀うごめく「宮中某重大事件」で下田歌子は出禁、山形有朋失脚。側室撤廃と女官を住み込みから通勤制に変更するなど宮廷改革を断行し、なんとか表面上は遠ざけた?だが実際は、裕仁と不仲だった母・皇太后貞明皇后節子)宮職69名の女官は温存され、節子死後も「宮中祭祀」を盾に隠然とした支配力を行使する。神政竜神会の熱烈信者だった島津治子、入江相政がその日記で「魔女」と称した今城誼子へは香淳皇后良子は絶大なる信頼を置いていた。
ま、しかし姫様奥方様のルンルンは所詮籠の鳥内でのこと。だが「士農工商」といえども、その4身分の下とされた穢多・非人や、夙・茶筅・乞胸・猿飼・ささら説教といった他の雑民の他に、士と農の中間ともいうべき人々、町人代官・在地代官・庄屋・牧士・手代・同心の役にある者(役目を負っている時だけ武士身分となる農民層)が、婚姻や養子縁組によって下級武士に昇格していたりした。
ざっと見てもこのような江戸時代「女は意外と自由だった」「女は弱かった」と、事はそう簡単に二元論でかたずけられることではないのである。様々な身分とその変遷によって異なる現実を人々は活きていたのである。

道徳科学の原理は、人か、女か?

1871年明治4年)、政府は廃藩置県と共に、戸籍法で「家」の範囲を規定し、家長=戸主とする家族が組織最小単位となる。
「抑も世に生れたる者は、男も人なり女も人なり。この世に欠くべからず用を為す所を以て云えば、天下一日も男ならるべからず又女なかるべからず。」 『学問のすゝめ』明治5年、と明治啓蒙思想をぶちあげた福沢諭吉。同年に学制発布されたが、その時に使用された「修身教科書」は、「士道」や「女訓」といった旧来儒教のものや故事訓話講話ではなく、57冊もの海外道徳書からの翻訳ものであった。
諭吉にとって、このような明治啓蒙思想の形成に多大なる影響があったのは、「武士道」でも「プロテスタント」倫理でもなく、1835年発行フランシス・ウエーランド『エレメンツ・オブ・モラル・サイエンス』という経済書。これに出会った諭吉は「一時脳中に大騒乱を起こした」と大興奮。従来の『論語』『大学』などの儒学に換わる、近代的世の中のモラル体系とその体系での各人が持つべきモラル体系の一体構想をする為に、探し廻っていた最中のことであった。

Moral Scienceは「道徳科学とは道徳法の科学である」という一文で始まる。ウエーランドにとり科学とは、「自然法、および、人間の幸福の増大のためにそれを適用しうる方法についての知識」であった。つまり、「道徳法の科学」とは、自然法、すなわち神によってこの世に埋め込まれている法を、人間の幸福をめざして、人間自身が探究することなのである。ここにあるのは、神と人間との、幸福な、予定調和的世界の最後の瞬間である。

そこから「人は万物の霊なり。性の善なる、固より論をまたず」とし、「人倫の大本は」「親子」でも「君臣」でもなく、「夫婦である」と定義した。また徂徠「修身斉家治国平天下」から転じて「一身独立して一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天下も独立すべし」という骨組の中にその個々の位置を確定させ、「男女同等論」に。
それに対して上杉鷹山は「男女の別は人倫の大節にして男は外に位し外事を治め女は内に位して内事を治ることなり」と「男女の別」を説く。子女教育というものが意識されるに従って、女性は「人」として教育すべきか「女」として教育すべきかという論争が勃発。それが、「人」ではなく「良妻賢母」教育に傾くのは、明治啓蒙思想=欧化主義のバックラッシュと時を同じくする。明治10年代後半に大いに発展したキリスト教主義女学校も、啓蒙思想を土台とした「欧化主義」にかわって、条約改正問題の行詰りで国家主義が指頭してくる20年代になると、その影響で入学者は減り、中途退学者が増えて在学生は著しく減少した。そして『教育勅語』発布がその「欧化主義」のとどめをさす。

(賢母良妻主義というのは)女子も国家に封して、男子に劣らぬ義務を有って居ります。すなわち家庭の司となって良人を助け、良人をして内顧の憂なく、自由に国家社会の事業に活動する事が出来る様に仕向ける事と、今一つは子供の母となって、十分に教育萬端の事を司り、次代の国民をして、益々良き国民とならしむ事であります。

下田歌子香雪叢書〈第4巻〉

啓蒙バックラッシュ

「利益線の焦点は実に朝鮮にあり」と常に朝鮮をめぐる戦争を意識し危機感をつのらせていた山形有朋は、兵備拡張とその教育が国民愛国の要となる最重要課題だと考えていた。キリスト教を西欧列強の経済的侵略への思想的武器とみなしていた井上毅は、啓蒙思想に同伴するキリスト教へは激烈な嫌悪観を抱いていた。理想儒教を「経世済民の学」とする倫理名教的な立場から、現体制を維持する為には「思想的鎖国」をも主張する。宗教と西欧科学技術を分離して考え、日本の歴史的特殊性(国体)を維持、尊重しつつ西欧の科学技術を導入せんと「東洋道徳西洋藝術」という方法論をさぐることとなる。そこで元々「学問(儒学)の思想」にある「一一種中一等の族類」=「士族」を政治、経済、社会各分野における指導的中堅勢力に位置づけようとした。>士族虞分意見控 このようなところから『教育勅語』は誕生する。
西洋科学における理の優位性そのものが、それをそのまま社会理論における理の優位性へと連続させるには、これまでの身体化した儒教朱子学的身分秩序な心情では、どうにも我慢できない激しい抵抗となった。しかし、優位性ある西洋科学は大いに取り入れたい。その為、「教育」と「学問」とは別、モラルはサイエンスでなくて修身教育という解釈が必要とされた。こうして西洋科学=技術=理系、儒教朱子学=教養=文系のダブスタ状態で「日本近代教育」が推し進められる。
鴎外『舞姫』のモデル・井上哲次郎明治24年勅語衍義』によって、勅語を政治的に補強する。江戸時代以来の民衆&士族をもって国民とする為には、人格的表現としての天皇と自己との関係を明確にする為に、天皇大親とした。『教育勅語』はこうした時代の都合に合わせた解釈(&主体)をその都度変えることによって、少しずつその姿を変えて使用されてきた。こうした勅語に不満をもった西園寺公望は、もっとリベラルなものをと天皇内諾までとりつけた上、第二勅語を記そうとしたが、結局実現しなかった。
明治33年『時事新報』で、子女教育は益軒『女大学』か諭吉『女大学評論・新女大学』かの「女大学」批判キャンペーンが沸き起こり『婦女新聞』などの婦人誌がこれに参戦する。これに対して井上哲次郎は、協会こさえ『女大学の研究』で、益軒大絶賛。
さてそうやって朱子学的序列に子女教育を落とし込んだ井上毅だが、目の上のたんこぶ、姫様=貴婦人はどーする?天皇大親なら、皇后は「皇国の母」として「良妻賢母」の序列の先頭にすえたのである。日清・日露での戦病者慰問に飛び回る皇后美子をもって、そのイメージに結びつけた。現在も日赤名誉総裁以下、皇室夫人がずらりといならぶのは、そのなごり。>従軍慰安婦*1 従来ならば御簾の奥深くでルンルンすごしていればよかったが、明治開明の世の中に晒されたのは、「皇后」その人であった。「皇国の母」と称されれど実子を持ててない中、前例なきその地位をどう表出していくのか苦悩した美子は、やがて慰問のみならず謁見等の「理想的女性」ならではの「公務」に地位の活路を見出していったのだ。
そんなこんな、江戸から明治への変遷で一番没落したのは、かって「傾城」「花魁」と讃えられもした遊女。「徳婦」=「良妻賢母」id:hizzz:20080215#p2のその影で、「娼婦」「売淫婦」「醜業婦」としか呼ばれなくなった彼女達は、遊郭崩壊によって世の蔑視線に晒されるようになった。一夫一婦制を支持する諭吉は、こうした女性達を卑しむ一方で娼婦制度を黙認していた*2。が、そこでしょぼくれちゃあ女がすたる、男女交際に貴賎があるものか。と、マスコミの揶揄もなんのその、好色漢として名をはせた伊藤博文の夫人以下芸者衆は、鹿鳴館でその華をみせびらかす。が、娼妓取締規則、花柳病予防法で、「〈健全〉なる慰安婦」として「皇国の母」の基報国序列化する。>id:hizzz:20070616

そもそも、道徳・倫理・モラルという問題は、人間が一人では成立しえない共同的存在であることと関係する。
歴史的に見ると、「大日本帝国」を名乗って日本列島に登場した国家は、この問題に明快な答えを与えた。国家が、道徳・倫理・モラルの体現者として立ち現れ、法律・制度のみならず、個人や社会全体の道徳も公定しようとしたのである。

関口すみ子国民道徳とジェンダー

The Elements of Moral Science
http://www.lonang.com/exlibris/wayland/
学制百年史 文部科学省
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/index.html

*1:1942年5月の「慰安役務」に就く朝鮮人女性徴集に関する日本人捕虜尋問報告>http://members.at.infoseek.co.jp/ash_28/ca_i02_1.html

*2:「娼婦は日本では、当たり前のことだ。しかし、外国では、男子の品行が表面上、とても清潔で一点の汚れもない。そのため、日本の有り様を見られると何かと世界で批判の的となるに違いないから、娼婦達は、西洋人の目のつかないところへ集中させるべき」@『続福沢全集5』