大江戸趣味とメディア

id:hizzz:20080714#p3の背景をも少し。
これといってやることがない江戸時代の将軍・大名は、趣味に邁進した。それはまず「本草学」、薬草=健康に執着した晩年の家康そのひとから始まる。中国漢方の『本草図譜』が伝わり、貝原益軒がそれに倣って国内植物を分類して『大和本草』をこしらえた。家光は全国の薬草収集をして後の小石川薬園を作る。ま、最初は実用だったのだが、ボタン栽培に熱中した秀忠から、花の珍種を愛でる品種改良方法に頭をこらした。将軍様がそうなんだから、大名だって負けてはいられない。当然将軍&大名という武士に栽培ノウハウなんかある訳がないので学者・農民巻き込む、かくして全国的に園芸ブーム到来。
暴れん坊将軍吉宗が特産奨励策を出したことが、さらにそれに輪をかけた。各藩は競ってお国の珍種・珍獣・奇鳥・珍品を「特産」として献上。無論、長崎・出島の南蛮渡来品は、とびきりの出物としてお寄りよせ、大評判となる。珍しい掘出し物はなにも南方だけじゃあない。蝦夷にだって、あるある。それによって『梅園百花画譜』『草花図譜』『草木図説』『栗氏魚譜』『目八譜』といった百科事典が編纂された。そのように江戸に集まってくる数々の情報をタネとして、身分を超えた博物学同好会での交流が盛んになっていたのである。
蠣崎波響『夷酋列像*1
その際のメディアは、印刷・出版。元禄時代井原西鶴の「好色本」がブームとなり、文化・文政時代には「洒落本」「人情本」「滑稽本」「読本」と多ジャンル化し、「浮世絵」は多色刷り「錦絵」という高度技術にまで実用化される。
印刷そのものは古くから伝来していたのではあるが、活版方式は少年使節団が西洋式活版印刷術を持ち帰るが、1614年キリシタン大禁令で活字印刷機は国外追放の憂き目にあう。が、文禄の役で朝鮮から印刷器具を奪取。家康が、伏見円光寺に学校を設け木活字を作らせ、最晩年に銅版が刷られはするが活字としては完成をみずに*2司馬江漢が腐食液を開発する迄、停滞。再販増刷が簡易な木版印刷オンリーとなる。
大きく分けて出版本は、辞書等の高価な「物之本」と、物語などの安価な「草紙」の2種。しかしいくら安価といってもなかなか庶民が所有するには、「草紙」といえども高価ではあった。そこで流通として古本&貸本屋が、巡回・回覧業として全国的に発達する。江戸だけでも600以上のこうした貸本屋があったという。
描かれた動物・植物 江戸時代の博物誌 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/nature/index.html
司馬江漢銅版画
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/k149/shiba_cont.html

*1:夷酋列像』の文化人類学的研究
http://www.minpaku.ac.jp/research/jr/05jr076.html

*2:アルファベットと違って、続きかなを多用する活字数の多さによる組版がネックとなり、費用的にもクリアできなかった

百聞は一見に然り

種子島にたどりついた2丁鉄砲から、国産鉄砲をこしらえた刀鍛冶のケースのように、その道具の原理・概念を理解するより精密仔細に部品を観察反復すること=視覚的実証アプローチによって形態模写する職人的身体技能仕儀が、国内では元々身についていたのである。
前回書いたように、蘭学・解剖学による人体の内面というものがポップアップ・ストーリー絵本とでもいうべき「黄表紙」によって可視化流通されたが故に、内・外という意識が初めて江戸人にもたらされ、内面秩序それが『石田心学』によって重要視されたココロというメタファーで庶民に迄普及したのであった。
このような視覚的態度のあくなき追及は、博物学的収集を経て蘭学がもたらした西欧の度量衡的態度にクロスしたのである。長幼の序を超えた仕儀に「親の間違いを子が指摘できる」と、司馬江漢は感激した。画法については、狩野派を始めとした粉本主義(お手本画を写生)の筆法・筆意・筆勢=花鳥風月の意境を問題とするのと違って、蘭画は対象をありのままに写し取る正確さの追及という今までになかった概念を目的としているそのことに、江漢も平賀源内も興奮したのであった。それはなにも江戸だけではない。京に於いても、西欧遠近法をとりいれた「めがね絵」*1こさえたりした円山応挙や、鶏に執拗にこだわった若冲に見られる意境の花鳥風月ではなく対象写生としたとき、それではキリスト教に帰依しない写生する自分の客観的意=秩序はどこに存在しているのか、画を描く自己とは何か、ということがその後の問題となっていく。<オリジナリティ、近代主体問題

   
丸山応挙『波上白骨座禅図』   アンドレアス・ヴェサリウスファブリカ*2
さて、視覚の悦楽のあくなき追求をしていけば、いかに多色刷りであっても所詮平面図なだけではものたりなくなってくる。あさがお市なぞで珍種を愛でるがごとく「菊人形」から始まって見世物小屋が全国を巡回興行するようになり、「籠細工」「からくり人形」、江戸末期には「生人形」といったフィギュアが次々と制作され、「草紙」で広まっている浄瑠璃・歌舞伎や怪談・猟奇物など*3名場面のジオラマ仕立となり評判を呼んだ。
安本亀八『相撲生人形 野見宿禰当麻蹶速』1890年
見立てから精巧・リアルへといったそんな庶民の娯楽は、明治の「見世物」博覧会にひきつがれた。そしてそれが、近代「日本美術」の始まりとなる。
江戸末期浮世絵に見る 視覚のモダニティ 堀じゅん子
http://www.hokudai.ac.jp/imcts/imc-j/imc-j-5/j5hori.pdf

*1:凸レンズの付いた窓から中を見る「覗きカラクリ」箱に入れた風景画。遠近法をつかって細密に描かれた画面が半立体的に感じるので人気があった。

*2:坂井建雄『謎の解剖学者ヴェサリウス

*3:「昔の化け物は昔の人にはちゃんとした事実であったのである。」「科学の目的は実に化け物を捜し出す事なのである」@寺田寅彦「化け物の進化」

画家という社会的個人存在方法

西洋の画法は理を究めたれば、之を望み見る者、容易に見るべからず。望視るの法あり。故にや彼国皆額となして掛物とす。仮に望むといへど、画を正面に立置きて、画中に天地の界あり。是望む処の中心とし、則ち五六尺を去りて看るべし。遠近前後を能分ちて、真を失なはず。

司馬江漢『西洋画談』

そうした珍しいものへの博物的好奇心から「科学のまなざし」を会得し客観性を獲得すると同時に、江漢の「望視るの法」視る・視られるが周囲世界からはっきり意識区分された関係性からくるその反対の概念・主観=近代的主体構築という近代王道に向かおうと自分のアタマで考え生涯実践苦闘しつづけたのが、高橋由一(1828〜1894)なんである。>id:hizzz:20050222
金刀比羅宮高橋由一
http://www.konpira.or.jp/museum/yuichi/yuichi.html
佐野藩士の傍ら狩野派に入門し手習を続けていた由一は、幕末に視た西欧石版画に強烈な衝撃を受けて以降西洋画をなんとしてもモノにせんと探究を開始した。んが、いかんせん、その技法はおろか道具すら体系化して日本には入っていなかった。こうして由一は、ただ描く技法だけを作画として追及したのではなく、日本家屋に合った西洋画形態(『鮭』のような縦長の「柱絵」、画を正面に立置きて正確に畳座で対峙せんとした「衝立絵画」、「屏風絵画」「掛け軸絵画」「画帳」)であるとか、迫真的写実技法を活用した記録保存(日本各地の名所明晰風景画、神話絵画)だとか、画塾での画材・技法研究と後進指導(「明治美術会」「天絵楼」)や、絵画雑誌の発行(「臥遊席珍」)、更には展覧会館構想(「螺旋展画閣」)など次々と企画を立てその実践に着手・奔走し続けた。絵を描いて活きていく個人「画家」としての社会的在り方=スタイルの創造、作画・画家の社会的認知・活用・定着をも含んだ実践事業に乗り出したのである。
武士階級であった由一は、大政奉還後の自己と社会=明治政府に対して待ったなしの身の振り方を考えねばならない立場ではあったが、こうした観察態度を通した武士的開明性による江戸的なものの否定、江戸的発想による欧化主義の受容に依る江戸的なものの否定という近代的ねじれが、その画業に現れてくる。
  
モデルとなった新吉原・稲本楼の花魁小稲は従来の「美人画」右側*1とはあまりにも違うその出来上がりにショックで泣きくれたという『花魁』左側。が、理想郷の「美人画」という型に嵌ろうとする女装意図とそこからはみ出す生身の小稲の「ゆるみ」「くずれ」という落差に対してこそエロスを感じているベタなそれこそを描写した視感リアリズム、もぉ、このこのぉ〜、由一ったら、ほんとに度スケベヲヤヂなんだぁ〜と、ワタクシ視るのである*2。このような『花魁』にみられる江戸にも西洋画にもない違和・異質=正解を模索する葛藤からくるオリジナルな創造力について、高階秀爾日本近代美術史論』は「西欧の油絵という技法の奥にある感受性とは明らかに異質の感受性がそこにあり、しかもその異質の感受性が、本来それにふさわしい乗り物ではない油絵という技法に乗って見る者に伝えられて来るというそのことに由来する」と指摘している。その後、「工部美術学校」の御雇イタリア人画家のフォンタネージ指導によって正当な西洋伝統絵画表現を身につけた*3由一のあくなき表現意欲からくるほとばしる魅力は、油彩技術が高まる後期には逆に凡庸なものとなっていく皮肉な結果をもたらす。
明治20年末に「明治美術会(1988〜1901)」殖産興業政策・工部省付属「工部美術学校(1876〜1883)」は、おフランス帰りのスーパースター黒田清輝を頂点とする「白馬会(1896年設立)」文部省付属「東京美術学校(1887年設立、洋画科設立1896年)」に政権交代し、以降、由一と共に山本芳翠、五姓田義松、浅井忠、小山正太郎らなど洋画黎明期の作風は、ダサくて暗い「旧派」「脂派」とされて「日本美術」概念世界からは断絶忘却されることとなる。
「不安の時期における根本問題のひとつは、如何にして客観的必然性を主体化し得るかということ」を考え続けた三木清は、「時代が政治色を帯びると哲学が芸術に逃げ込む」と指摘した。

法律のみではなく、あらゆる制度的なものはノモスの意味を有している。芸術の如きですら制度と見られることができる。例えば芸術における古典とは何であるか。古典とは我々の趣味にとって基準となり、我々の制作にとって模範となるものである。言い換えると、それはノモス的なものである。かかるものとして古典は明らかに価値高き作品でなければならぬ。しかもそれの有する価値が伝統的に定まっているということが古典の一つの特徴である。古典が古典といわれる価値は我々が一々批評した上で初めて定めたものではない。却って我々は古典に據って我々の趣味を教育し、その基準を定めるのである。

三木清『想像力の理論』

かくして、近代主体獲得の実践は始まったとおもったら、美術として国家権力制度化された国粋主義の台頭と共にあっけなく終ってしまったのである。とほほ。

これ以後、国内美術ギョーカイは忘却の呪縛に捉われるさまは、また今度。。

*1:http://homepage2.nifty.com/koina/

*2:「視る・視られる」は、「視せた・視られた」という解釈の自他落差でもある。>期待権

*3:以前に横浜でイギリス人ワーグマンに絵画指導を仰いではいるが、彼は油絵画家ではなくポンチ絵ジャーナリストであった。