人文という価値観の変遷

北京五輪に関連させるてここんとこのネタの流れからいくと、肉体と精神の向上の体現としてかっておこなわれた「オリンピック芸術(絵画・彫刻・建築・音楽・文学)競技」なんであるが、Wikipediaに書いてあるんでヤメ。時期的にはコミケなんで日中文化交流がらみを。。

近代への抵抗としての人文画

コミケといいつつも、まずは前回の追加説明から。
端的に「人文」とは古来中国では、儒学教養と詩文能力を試される人格のことを指す。「人文画」というジャンルの始まりは、賤しい職業画工でない詩情&人格ある「士人の画」かどうか、明朝末期に唐〜明期の画家たちを人文的かそうでないかという分類をしたことによる。それと当時に禅宗が唐代に南北に宗派が分かれた後、北宗が衰え南宗が栄えたことにより、人文画=南画と位置づけ、北宗的画家たちを排除したのである。
そんな人文画を、前回かいた通りフェノロサ岡倉天心たちは旧弊=江戸時代の形骸化した様式として厳しく断罪し、狩野芳崖・橋本雅邦・横山大観らの西洋方式を取り入れた「日本画」を擁護した。西洋画も含めてそれは「表現主義」とみなされるものであるが、西洋の流行画が進歩の光かがやく印象派から陰鬱な世紀末ウイーン的な情緒に移ってくるにつけて、その情緒を喚起させる精神へと関心がいく。そして自分たちの情緒精神の原点としての人文画を思い出す。そんなところに1911年の辛亥革命後、その社会混乱によって王宮に秘蔵されていた明・清の正統的書画が大量に流出し*1、日本でも南宋画展が催されかってない規模でそれら現物を観賞する機会が出来、社会的に人文画そのものへの関心が一挙に盛り上がったのである。
天心らによって東京美術学校教授に推挙された高村光雲*2の弟子の彫刻家・美術史家&批評家である大村西崖(1868〜1927)は1921年に訪中し、人文画家であり美術史家でもあった陳師曾(1876〜1923)と人文画の芸術性について意気投合した(師曾は8年日本留学してた)ことから『人文画の復興』1921年の構想に至ったという。
1901〜20年の人文画(南画)復権の背景を、日清・日露後の国際=西洋社会における近代国家日本としての位置確保による優越感という当時の時代の空気は無視できないと、陸偉榮は以下のようにいう。*3

日露戦争勝利後の日本は、「世界の一等国」としての自意識を確立していくなかで、「中国を含む『東洋』の文化を積極的に日本の歴史的文化的資産目録に組み入れようとする膨張主義的傾向へと変容した」といわれる。東洋的精神を強調する思潮の中で、南画は一転して「近代的」とされ、いまや日本美術の将来を担う文化資源ともされたわけである。

陸偉榮『中国の近代美術と日本―20世紀日中関係の一断面

「人文画とは何か。人文画とはすなわち画のなかに人文的な性質を帯び、文人の趣味も含まれる。画に芸術的工夫を追及せず、作品そのものではなく、作品の外から多く文人の感想が見られるようにせねばならぬ。」という陳師曾が定義した人文とは、「第一要人品、第二要学問、第三要情才、第四要思想」を重んじた教養人のことであり、そうした人たちによる「画に芸術的工夫を追及せぬ」作品には自ずと芸術的要素が表現されているという。さらにそれは西洋絵画と対立するものではなく、「人間の主観的精神や情趣を表すもの」であるとする。
あるイデオロギーの基に研鑽純化された精神&情趣、しかし技術的営為は拝するピュアなアマチュアリズム表現者なアタシ。作品そのものより、思想信条が保障する人格第一。理解するより感じろ!…いやぁ、実に、その方法論は、クリソツなあれやこれやそれが頭ぐ〜るぐるしてしょーがない人格なきワタクシ。あははは。。。

*1:呉昌碩ら、清朝王族貴族・遺臣が日本に亡命移住するなどして、清朝皇帝一族と日本皇室との間に浅からぬ関係が出来た。

*2:職人たる自分は教授するような学問をもちえないといったところ、ただ制作するプロセスを生徒に見せてくれればよいといわれたらしい。

*3:但し、当の西崖自身は「支那は日本の文化の本の国である」と中国賛美の姿勢

民国の趣味と生活漫画が担った、上海モダニズム

1920〜70年代上海という新興都市の大衆に「子緂漫画」名称で人気を博し、後に「中国漫画の鼻祖」といわれた豊子緂(1898〜1975)という人がいる。ただ、漫画といっても現在のようなストーリー・コマ形式とは異なり、イラスト画である。
中国絵画は、油画(西洋油絵)国画(中国伝統画)版画が存在したが、国画は清朝末期以降硬直・形式化していた。中国でも“meishu”という概念はなく、「美術」という日本経由での翻訳用語が定着されようとする途上であった。第一次大戦後の対華21ヶ条要求受諾という講和条約問題に端を発した愛国運動は、その弱体化の原因を旧来伝統文化にあると断罪した。そんな1910年代の新文化運動・五四運動の中核、陳独秀新青年』が「美術革命」1919年で、人文的伝統より西洋写実精神への転換を提唱し、西洋画ブームが中国に到来し以降、多くの美術学校が油画科を設立した。子緂はそんな中で文学・音楽・西洋画の教育を受けた後、小一年ほど日本に留学しているのであるが、随意に描いた絵=「漫画」という名称自体、日本から伝来したものだとも云われている。その当時、漫画といえば、報道的イラストと情緒的イラストと滑稽・風刺画の3タイプが存在していたのであるが、子緂のはごくありふれた日常を描くと共に古典詩詞にも題材を求め「詩画」とも自称した感性文学的なものであった。
丰子恺 - [净心随笔]
http://adwayne.blogbus.com/logs/7847952.html
それは竹久夢二の画風に強い影響を受けたもので、自らの随筆でも夢二に言及すること、度々であった。文学的感性にも秀で分筆家としても名高い子緂は、後年『源氏物語』の翻訳をするなど絵画と文学両方に重きをおいていたが、中国画は人文画で見るように古典文学的要素が高いが、一方西洋画の多くは(神話・宗教絵画を除いてしまえば)純粋絵画に徹する姿勢大。そんなことを抱えながら日本に来た子緂にとって大正ロマンあふれる夢二の世界は「深淵で幻術な人生の味わい」「声なき詩」「芸術と生活の接近」とばかりに、精神的・様式的に引き継がれた。
大正モダニズムとは、明治期の富国強兵・殖産興業=文化産業化政策の、一定の成果としての都市中産階級であり、かつ反動・対抗としての大正個人消費生活文化でもあり、日露戦争への関心から爆発的に発達したメディア(状況映画・出版)によってそれは加速された。
時期をずらして民国中期中国でも五四運動〜国民革命の成果は1930年代の上海に未曽有の繁栄をもたらした。ほぼ毎週のように家族とハイヤーでハリウッド映画を観賞していた「“反体制作家”魯迅が職業作家として中産階級の暮らしを享受していた事実は、1930年代上海で近代的市民社会が一部であるにせよ実現されつつあった」ことの現れだと藤井省三20世紀の中国文学』はいう。
響き合うテキスト―豊子緂と漱石、ハーン 西槇偉
http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN3303.pdf
響き合うテキスト(三)異国の師の面影豊子緂の「林先生」と漱石の「クレイグ先生」、魯迅の「藤野先生」 西槇偉
http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN3602.pdf
儒教のような中国伝統思想は、明治啓蒙知識人と同様に日本留学組&欧化知識人達により「悪しき伝統」として否定された。が、子緂はただ単に夢二を真似たのではなく、その伝統中国の中から迷信・因襲的要素を排除した近代的人道倫理として再生を図ったのである。
一部の特権知識でも即物的エログロでもない生活趣味、魯迅・巴金・林語堂という一世を風靡した作品を広める媒体となった出版メディアや新興中間市民層の趣味という都市文化は、こうした道すじで花開いたのである。>西槇偉『中国文人画家の近代
欧米近代化への対応を急速に進めなければならない必要に追い込まれた中国にとって日本は、「同文同種」でありながら「最も近い西洋」=日本化した西洋を摂取・改編するのが、最も経済的かつ合理的方法であった。中国人美術留学生を研究している中国藝術研究院の劉暁路は、「古代の日本を育てたのが古代中国であったとすれば、近代中国を育てたのは近代日本であったといえる。日清戦争以来、外国への留学生は日本が最も多く、その大半であった。魯迅先生の筆になる(「藤野先生」に登場する)上野の景色は、その迫真の描写である。近代中国の政界、財界、学界、文化界の要人は、ほぼ皆留学の経験がある。」「外国美術学校の中でも東京美術学校が最も多くの著名外国人を引き付け、留学の最盛期も最も早かった」という調査結果から「ここが名実ともに、中国近代美術の1つの揺藍となっている」という。
しかし、1949年新中国建国後の「最も近い西洋」は共産主義国ソ連にとって代わり、それまでの美術は中国伝統美術も含めて文革によって全否定され、ゼロからの出発となる。

民主主義の教科書となった動漫

現在の中国では、アニメとマンガのことを「動漫」と呼ぶ。共産主義思想的教養と機能構成主義的技巧を価値においた共産人文画は、社会主義リアリズムの再生産でしかなかった。そんなとこに日本でヒットした80年代以降のTVアニメやマンガは、台湾でドラマ化したり中国語海賊版として中華文化向けに加工されたものが、海賊版業者によって中国本土に持ち込まれた。80年代以降、中国もTVが普及しはじめ、画像を通して日本への親近感と異なる文明世界への憧れを抱いていったという。ではそこで、「崇洋媚外」として米国カウンターカルチャーのような政府による思想統制がなぜなされなかったのか。80年代以降の改革開放の経済発展で少しずつ余裕が出てきた中国人民は、消費娯楽のゆとりを持つようになった。が、政府提供のものはすべからく教育的指導にみちみちた画一的な社会主義リアリズム。政府の方からすれば、特定の政治思想もない子供向けな日本製サブカルはくだらないが、「たかが娯楽、たかが動漫、若者は変に政治意識が高くなるより、漫画やアニメにうつつをぬかしてもらったほうが、国家が安定する。そして大人は金儲けに現を抜かしてくれていた方が、社会不満を政治にむけてこない」として消極的に容認したと遠藤誉『中国動漫新人類』はいう。そしてその一見すると思想性政治性のなさこそが、自分の感性で好きな動漫を選び「愛」「友情」「おしゃれ」「多様性」「かわいい」といったその価値世界に浸る行為プロセスをもって、結果的に「思想性」を生み「政治性」へとつながっていく潜在力となったと分析する。そしてその個人的精神価値こそが、天安門事件以上の民主化へのステップとなったと結論づける。
と同時に、90年代に江沢民政権下で推し進められた愛国政策による反日感情愛国無罪」は、こうした動漫萌と裏表の関係であるともいう。政府首脳も含めて民衆個々すべからく「売国奴と罵られないかどうか」文革の粛清運動からくる「大地のトラウマ」という深層心理から来ているとする。

主文化は「トップダウン」で民衆に与えられ、次文化(サブカルチャー)は「ボトムアップ」のかたちで世論を形成していく。二つの文化のベクトルはまったく逆を向いているわけだ。しかも民衆の立場にたてば、主文化と次文化は地続きでなく独立して存在している。それぞれを消費するにあたっては、心の中で「スイッチの切り替え」が必要となる。
反日感情と日本動漫への思いにおける中国の若者の心のダブルスタンダードは、「主文化」と「次文化」の相克である。
ゆえに、反日だけでなく反米もあれば、反体制だってある。だからこそ、中国政府はその首謀者(愛国無罪)を反日デモの際に逮捕した。反日だから逮捕したというのではなく、国のトップダウンの意思とは無関係に政治行動を行ったこと、彼らの運動がボトムアップで盛り上がったことを政府は問題視したのである。
あの反日暴動の首謀者が逮捕されると、…誰もが「私は関係ありません」という顔をし始めた。…彼らでもで暴れまわった者たちは、「愛国無罪」という、あたかも主文化領域にいるような顔をしてその衣をまとっていたが、その化けの皮が剥がれたので、いきなりおとなしく次文化領域に戻って鳴りを潜めたのである。

遠藤誉『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす

この2005年の反日デモの発信元は、サンフランシスコで中国政府に民主化促進を訴える台湾系人権擁護団体であったという。台湾と大陸との仲間意識を共有させるツールとしての「抗日戦争の記憶」である。インターネット内の「憤青」と呼ばれる愛国民族主義者たちが媒介となり、中国大陸の若者を煽動した。「声が大きい者が、より革命的」で声の小さな者は「非革命的である」という群集心理表現が、まんまベタにインターネット内で中華民族社会相手に展開されたのであった。
それならば、日中台(韓国も含めて)の仲間意識を共有させるツールとしてアニメ・漫画繋がりという、ボトムアップでの相互活動が可能なハズではあるのだが、衰退の兆しが見える日本のアニメ・漫画やタコ壺づくりに腐心する文芸批評家さんたちは、こうした異文化からの闘魂注入を受容して、活性化出来るのであろうか。。。
漫画同人誌:中国発「萌え」日本で展示直訴 コミケ参加も
http://mainichi.jp/enta/mantan/news/20080814mog00m200029000c.html

近代が取りこぼした「民族」

聖火妨害騒ぎは一体なんだったのか?日本でもあれだけ騒いでいたハズなのに、北京五輪開催反対って声や行動はすっかりないみたいだしな。とまれ「フリーチベット」にかこつけて優越感で中国をせせら笑っている立場ではないのだ、日本は。てゆーか、チベットはおろか中国の歴史・情勢についてすらロクに把握しようとせずに(自己立ち位置の無謬性は担保したまま)、「フリーチベット」いう正義なアタシを表すという内向きなノリによる国際連帯幻想は、牧歌的というより幼稚で最悪だろう。*1
竹内好によれば、日本文学は民族という思考を排除することで近代主義としたが、それは白樺派=日本ロマン派の抽象的自由人という設定の文学上の可能性が開けて以降だという。しかしそれはかって人文画ジャンルが北宋を退けたように表面学問・文壇上から排除されたダケで、土着思考は実際上無くなったわけではなく反撥の機会をねらいつつ、意識として生息しつづけていたのである。

マルクス主義者を含めての近代主義者たちは、血塗られた民族主義をよけて通った。自分を被害者として規定し、ナショナリズムのウルトラ化を自己の責任外の出来事とした。
(日本ロマン派を)外の力によって倒されたものを、自分が倒したように、自分の力を過信したことはなかっただろうか。それによって悪夢は忘れられたからもしれないが、血は洗い清められなかったのではないか。

竹内好近代主義と民族の問題」『竹内好セレクションI 日本への/からのまなざし


戦後の近代主義の復活はそんな日本ロマン主義のアンチテーゼであり、その戦後近代主義のアンチが、今日のポストモダンという系譜をたどる。ということで、「近代主義」を又にして日本ロマン主義と今日的ポストモダンは手を結ぶ。やれやれ。
無論、過去ファシズムが抑圧された民族意識をウルトラナショナリズムにまでして政治利用したことへの弾劾は必要だが、そこでウルトラな部分だけを抜きだして弾劾することも無意味。かといってそれによって素朴なナショナリズム心情まで制圧してしまうこともよくない。上記にみられるように中国のそれは社会革命と緊密に結びついているが、かっての日本の見捨てられた戦前ナショナリズム帝国主義と結びついてウルトラ化するしか道がなかった。その民族ナショナリズムを社会的にどう軟着陸させて担保していくかという難問に対峙せずに、ナショナリズム=帝国侵略主義=排除と墨塗りして(戦後民主主義)知らぬ存ぜぬ(80年代ポストモダン)といってしまったつけが、現前として日本にも溜まってるいたのである。んで、冷戦終結後の90年代の世界の見直しで、多様性・エスニシティの蓋を開けたら、忘れたことにしてたそれがわらわらと飛び出してきた。>靖国慰安婦問題*2

文学の創造の根元によこたわる暗いひろがりを、隈なく照らし出すためには、ただ一つの照明だけでは不十分であろう。その不十分さを無視したところに、日本のプロレタリア文学の失敗があった。そしてその失敗を強行させたところに、日本の構造的欠陥があったと考える。人間を抽象的自由人なり階級人なりと規定することは、それ自体は、段階的に必要な操作であるが、それが具体的な完き人間像との関連を絶たれて、あたかもそれだけで完全な人間であるかのように自己主張をやりだす急性さから、日本の近代文学のあらゆる流派とともにプロレタリア文学も免れていなかった。一切をすくい取らねばならぬ文学の本来の役割を忘れて、部分をもって全体を掩おうとした。見捨てられた暗い片隅から、全き人間性の回復を求める苦痛の叫び声が起こるのは当然といわねばならない。

「ただ一つの照明」自己萌ジャンルへと閉じこもるおたく・サブカル(含む右・左翼)、そして「○○論壇」などという断片的な場をもって永遠の80年代「抽象的自由人」だとするその仕掛けっぷりは、「具体的な完き人間像との関連を絶たれて、あたかもそれだけで完全な人間であるかのように自己主張をやりだす急性さ」そのものではないのか。永遠の祝祭で戯れてそれで良しとしてるその道の延長は、また「いつかきた道」*3となりはしないだろうか。もそっと、知恵はないんだろーか?

*1:政治的に右翼・左翼と自己規定して運動していても、断片化したトピックのみを論拠としている者が多い。これも学校教科ポストモダン=受験科目分断・高校未修履問題という80年代ならではの特徴なのだろうか。。。

*2:左翼は「靖国民族宗教的存在を無効にしようとし、右翼は「従軍慰安婦」第3の性的民族存在を無効としようとした。このように対極に押し付けようとした方法論は、どちらも排除の論理でしかない片務性を帯びている。いっておくが「民族」概念枠は「国家」と同様に近代以降のもの。

*3:従来サブカル・エリート&ブルジョワ層と、永遠の祝祭に参加できない貧困によりサブカル楽園の欺瞞を喪失感として心的障害にうずく者との、部分・断片となった声の大きい=ポピュラリティな両極が結びつくことで、祝祭存続の為に「サブカルの欺瞞」を「社会全体の欺瞞」にすりかえ、その他多数の微細なオルタ可能性を凌駕・駆逐する「完き人間像」として社会像となりかわる、全体(国家)社会主義