聖性イメージの簒奪戦

それがどんな時代であっても人々全員が幸福で満ち足りた人生を満喫している訳ではない。
こんなハズではなかったと本当の自分を求める人は、理想と現実の擦り合わせの中での人格生成努力ではなく、あるべき理想的自己がすっぽりはまる世界観を作り上げる方向にむかう。将来に望みがない者は、自らの出自へ過去へと夢想する。今はこんなだけど本当の本来の自分はもっと偉大で立派だったんだという自己確認を反芻する為の土壌として、都合の良い過去世界を作り上げるそれが、スピリチュアル前世占いやエコロジー疑似科学陰謀論歴史修正主義といったスタイルをとる。

ネ申の国を仕切る、オレ様

国会議員たる自分よりいち早く閣僚になり全国区の知名度を得た妻の夫という立位置をひっくり返さんと気張ったのかどうか、大蔵省出身国土交通相中山成彬の連発トンデモ論と出る出ないなマヌケぶりとか、随時アゲンストウインドを演出して大物ぶる石原慎太郎を真似たのか、スリッパの弁証法で勝てる立ち位置からの徹底した弱者たたき仕事を見せびらかすことでの得点かぜぎするコバンザメ弁護士出身府知事・橋下徹とかが報道されるにつけ、大蔵省入るほど司法試験通るほど勉強しても直らない程のおつむってあるんだなぁ〜っと、しみじみ。この2人は日教組撲滅で共通してるが、その文教行政を背景にする文教族のドンは、「日本は神の国」とかまし政局キングメーカーぶりたいが最近はカラぶりぎみのあの元総理・森喜朗だし。
ほいで今度は「(司法判断)そんなの関係ねぇ」な自衛隊航空幕僚長田母神俊雄が歴史妄言炸裂、はぁ。。。もういくばくかで定年退官だろう歳で、たとえ代表が同じ妄言かもしてたとはいえ3流新興企業なアパなんかに、何故うかうか妄言文章応募したんだろうか?退官後の執筆活動への活路を期待し「審査委員長・渡部昇一」で吊られた単細胞な世間知らずだけとも思えないそこだけが、ちとひっかかるな*1 *2。ちなみに、元旦那を「金髪糞豚野郎」と罵りコワサ知らずで「父の娘」街道を悲痛に驀進中の泰葉が会見開いた場所も、アパなんだよな。ほうほう、意外なところで権威獲得活動の一旦が見えたような。
しかしなんでこんなのが組織にのさばってんのかと考えるに、ナントカとハサミは使い様というニーズに応えて、適時「観測球」発射しその時の空気によって少しづつ立ち位置を作っていく処世術の出たがりプレゼンスなオレ様トップと、責任抜きな仕切りでやりたい放題な小利口ブレーンの双方にとって、対外的にはとても都合がいい敵本主義だからだろうな。そしてそれがいい気になりすぎてのさばって使えなくなったとき放りだす、王権神話セオリーか?

*1:航空幕僚監部教育課が「自己研鑽に役立つ」として全部隊に推奨し、自衛官94人が同賞に応募してた。

*2:昨年8月に石川・小松基地アパグループ代表をF15戦闘機に搭乗させてたとか>http://gendai.net/?m=view&c=010&no=21466
・【著者が語る】報道されない近現代史http://www.business-i.jp/news/book-page/debut/200805240001o.nwc
・アパ代表と親交10年「小松基地友の会」を接点に>http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-08/2008110801_02_0.html

皇国史観のルーツ

近代以降の日本主義についてはid:hizzz:20080401に書いたけど、もすこし歴史を逆走して偽史創生のルーツをさぐってみる。
id:hizzz:20080401#p2では端折ってしまったのだが、明治期にも一大歴史教科書論争があった。「南北朝正閏論」明治44年南朝正統に歴史教科書が書き換えられた。近代法憲政下で、今更なんでそんな600年前のことが問題となったのであろうか。
南朝正統説は北畠親房らによって唱えられた。『太平記』『梅松論』は北朝正統を採っているが、前に書いた通り水戸の徳川光圀の『大日本史』は南朝派でありid:hizzz:20050611、それで発展した国学南朝派であった。そんな江戸時代に培われた「草本」や講談などで民衆には楠木正成新田義貞等の南朝側忠臣の人気が高かった。んが、室町・江戸期の宮中はずっと北朝系。初期の欧化主義が退行して日本を意識強調し出した頃、この南北期と万世一系天皇制のつじつまをどう合わせるかが大問題となったのである。あらましは↑のリンク先で見てもらいたいが、現在から考えれば北朝系が続いているんだから並立で済ませればいーじゃんとドライに思うんだが、南朝系統にこだわる大きな問題が天皇系譜の正統性の他にもうひとつあった。
それはそんな天皇を推し抱く忠臣=薩長の正当性である。『教育勅語』が説く「長幼の序」と照らし合わせても、他藩を差し置いて政権を牛耳っている薩長をどう正当づけるか。北朝系統下の徳川幕府を倒幕して明治憲政をにぎった薩長は、南北朝を収拾した北朝系統下の足利「幕府」に自分たちを擬えることはさすがに無理がある。尊攘の志士たちは、自分たちを幕府に抵抗する南朝忠臣になぞらえ、それを美学としていた。統幕主体者たる薩長とて美意識の上では、江戸以来の武士忠臣伝説に沿う南朝国学史観は南朝、世論も南朝、だけど頂く今上は歴然たる北朝系統の捩れっぷり。とはいえ、同じ南朝派でも少しづつ立ち位置によって、三種の神器派、水戸国史派など歴史観や道徳教育観や国家観の違いにより史観内容が異なっていた。そこでまた、喧々諤々。北朝・南北並立派は史実にもとづく歴史学者達であったが、南朝派は歴史学者のほかに文学哲学や法学や教育者などが参戦し、史実の正しさよりも国民道徳としての正しさを重視した。

信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知ることです。人間にはこの二つの道があるのです。知るということはいつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない、そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。

小林秀雄「信ずることは知ること」

んなこといってもだな、いくら自分が「正しい」と思って行動しても、その「正しい」の根拠となる歴史なりモラルなりのそのものが、あらかじめある一定の片務性を帯びて方向性を決定づけられるからこその「正しさ」なれば、一体全体その「正しさ」をどうやって第三者的に検証提示出来得るというのであろうか。んな個人の中の思いを放たれた確証のとれない信仰的「正しさ」は、他人を呑み込みやがて制御不能な絶対正義へと浮遊してく。
大体、立場で違ってくる「歴史観」「歴史解釈」というのは、思想・文学であって歴史解明という歴史学問ではない。しかし儒学漢籍以来の人文的価値を最上とする近代知識人にとって、実証学問は格下の実務としか捉えられなかった。>id:hizzz:20080816 その意識の中で、『教育勅語』教育=道徳とがっちりむすびついた教育観でもって歴史教育を鑑みれば、事実とつじつまが合わなくとも美しく理想的で正しい歴史観の教え=歴史教育となってしまったのだろう。本来あるべき日本と我々の姿、美しく理想的で正しい思想の確認反芻の為の、結論としての過去=歴史物語。こうして神話と歴史が結びついて、皇国史観という気宇壮大な一大ファンタジーの世界が確立する。
南北どっちが本者でどっちが偽なのかはっきりせいと「正閏論」として政府につめよったのは、論争好きなキムタカ哲学者・木村鷹太郎。彼は「文部省は危険思想の府なり」と断定して井上哲次郎高山樗牛達と大日本協会を結成したのちに、自分の熱狂的信奉者と共に日本民族協会をつくり『為朝とタメルラン』『仁徳帝のエジプト浪華』『トマスモア「ユウトピア国」は我が日本津軽』『日本建国と世界統一の天照大御神』『天地開闢高天原』『東亜及び全米国の父・継体天皇』などを「新史学」としてトンデモ空想論を炸裂させた。この論争は政界に飛び火して、話せばわかるデモクラシーな犬養毅さえも、後醍醐天皇を奉じた楠木正成以下南朝忠臣こそ現代日本人の理想であることは自明であるのに、それを認めないとは非国民的行為として、桂内閣を攻撃した。佐幕派だった原敬は、政府側についた。
内閣総辞職すべきかどうか桂に相談され、事態をどう収拾すべきか悩んだ枢密院議長・山形有朋は、森鴎外に意見を求めたという。鴎外は南北並立を示唆したらしいが、聖裁ののち南朝正統の詔書が発布。教科書から5人の天皇と共に南北朝が消え、新しく南朝側3人の天皇が追加され「吉野朝」時代が創生した。明治天皇は、血統は北だが皇統は南の正統を継ぐものということで、北朝祭祀は従来通りという、なぁーんのこっちゃあワケワカメ。ここで「皇統」という新しい概念がひねり出された。
これで収まるかとおもいきや、反政府ナショナリスト達がこれに飛びついた。大逆事件幸徳秋水は裁判で、現天皇後醍醐天皇に謀反した子孫だといったとか。超国家主義者&デモクラシー派の反政府側は政府攻撃の為に、この論争を相次いで利用し、とうとう桂内閣は総辞職に追い込まれた。正しさや道徳・愛国心といった「皇統」を支える報国大義で民意を集め、政府や史実を動かした成功前例は、この時に記憶された。そして天皇機関説を契機とした昭和の国体明徴運動に繋がる。

斥力を利用した権力、ヒエラルキーの中抜き

そんなに無理を捻じ曲げてでも接続させたかった、南朝・吉野とはいったいどのようなコトだったのであろうか?
日本の歴史の特異なトコは、常に実質支配と名目支配が常に分化し、実質支配権力が自らを保証するというカタチをとることがなかったのであるがid:hizzz:20050510、そんな史上きわめて異例な天皇が、一次的に名実支配を遂げ後の南北動乱の火種をこさえた後醍醐天皇だ。その異常な性格、マキャベリスト・独裁・謀略的で不撓不屈さや、建武新政の特異さをもってして、網野善彦は「異形の王権」と呼ぶ。
異形が何故、民衆に人気があり武士が忠臣の美学として擬えるのか。まず、それまでの既成事実を観念的に否定し出自序列を無視した実力主義による人事を図ったことである。王朝国家の体制として定着していた「官司請負制のオール否定」、官位相当性と家格の秩序の破壊、「職の体系」の全面的な否定であり、古代以来の議政官会議―太政官の公卿の合議体を解体し「個別執行機関の総体を天皇の直接掌握に入れること」を「最も基本的な改革目標」としていた。まさに、下剋上天下統一や倒幕志士の美意識にぴったりハマる改革目標!規制秩序をひっくり返し世界を変えて見せるという、この上ない一大スペクタクルに下々もわくわく(但しトップを牛耳るのは、独裁天皇なんだけど)。
きっかけの後嵯峨天皇の死後に始まった大覚寺統後醍醐天皇)と持明院統花園天皇)の抗争が荘園・公領に及んで下は百姓名主職から本家職にまで至ったのは、貨幣の流通による秩序価値の流動化、王朝支配体制の職の体系そのものの揺らぎからであった。その職は天皇職に迄及ぶ。商工民を内裏に引き入れ無礼講宴会でバサラと臨席した後醍醐天皇は、異界で蠢く非人や悪党といったアウトサイダーやセックスを模す密教呪法や律僧といった者達のプリミティブなエネルギーを吸い上げ、再度の挫折を乗り越え、新たなる天皇専制体系の樹立を目論んだのである。
だが権力の座を得た後醍醐天皇のそれまで登用してきた者を切り捨てた親政に、反目した足利尊氏が最終的に持明院統光明天皇を即位させて北朝成立。が、一旦は尊氏と和解し「三種の神器」を北朝に渡した後醍醐天皇が、渡した神器は偽物で持ってる自分こそが正統と吉野朝廷宣言したことが、その後の60年余りの南北朝動乱のトリガーとなる。

非人の軍事力としての動員とこうした祈祷、「異類」の僧正への傾倒と「異形の輩」の内裏への出入。…この時期、非人はなお差別の枠に押し込められ「周縁」に追いやられ切ってはいないと私は考えるが、その方向に向かう力は強く働いていた。
「性」についても、『天狗草紙』や『野守鏡』などの禅律僧に対する烈しい罵倒を通して、われわれはそれを暗闇に押し込めようとする野性的な反発も、またきわめて強大であった。後醍醐はそうした反発力を王権の強化のために最大限に利用し、社会と人間の奥底にひそむ力を表に引き出すことによってその立場を保とうとしたのである。
「異形の王権」は社会に根を下すことができず、「異形」のまま、その短い生命を終えた。しかしこの短命な政府の出現が日本列島の社会に与えた衝撃は、決して小さいものではなかったのである。それは間違いなく日本の社会の暗部に突きささるものをもっていた。

異形の王権網野善彦

皇国史観南朝を起点とし、神国スピリチュアルの多くが吉野を聖地とするのは、この正統系から外れた後醍醐天皇の政権執着の軌跡がもたらす異形斥力の「歴史や神話は自らの手で創造し直す」パワフルな魅力が、砂を噛むような日常で浮遊・漂白する感性をゆさぶることから来ているに違いない。

聖(ひじり)と権力

前回id:hizzz:20081028政治運動のハナシでのid:muchonovさんのコメント

「常にトータルな一貫性をベースとした上での個々の表現活動といったバランスで構成するマネジメントとメディア戦略」についてですが、これってL=Sが批判的にとらえていたエンジニアの思考そのものだと思うんですよね。「L=Sも批判してるから一貫性なくてOK」と言いたいわけではないのですが、せっかくL=Sに言及されているのですから、おそらくエンジニアの思考の枠組では否定的にしか了解されないはずの野生の思考やTAZの痕跡をこの一連の出来事のなかに見出して肯定的にとらえかえしてみるほうが、知的な生産性があったりするのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/hizzz/comment?date=20081028#c

ここで出てきた「野生の思考やTAZ」というのは、レヴィ=ストロース野生の思考』、ハキム・ベイ『T.A.Z.―一時的自律ゾーン (Collection Impact)*1を指しているんだと思うが、ワタクシのいうマネジメントは、id:muchonovさんが仰るかぎりなくノイズを排除した整然としたコマンドラインみたいなことを言っているのではない。ま、これだけだらだら書いてこれに言及しているのでもう判ってらっしゃるとは思うが、もう少し補足する。
構造的思考(文明・理性・整然)と芸術(自然・情緒・混乱)を二項対立させて、「野生の思考やTAZの痕跡をこの一連の出来事のなかに見出して肯定的にとらえかえしてみる」という一方に片寄った方法を斥力として重視する方法論こそが、反近代を意識した「所有と実存」闘争という近代思考なのである。そのルーツは現象を秩序=神と無秩序=悪魔に分けて無秩序をどう排除するのかというキリスト教から来ているものだ。それはスピリチュアル前世占いやエコロジー疑似科学歴史修正主義といった土壌となっている。それは復古創生をとなえる右派だけではなく、反文明・反グロバリゼーションンという近代反動運動で右と左のこうした発想土壌・着目点・美学は全く同一のものであるのだ。>id:hizzz:20080110 で、返答コメントで書いたとおり、現代はその二項は対立しないという前提に立った「多様性/多文化」をどう共生させていくかの問題となっている。>国連開発計画『人間開発報告書id:hizzz:20061005#p4 企業マネジメントさえCSRで「ダイバーシティ(Diversity & Inclusion)」が概念として論理化されてる位である(それが女性活用に矮小化されてるケースも多々あるが)。id:hizzz:20080528#p3
芸術行為としても、現代アートでもコンセプチュアルというジャンルが成立してる位、構造的思考と芸術・芸能は決して二項対立ではない。よく言われる「感情のおもむくままに」ということは、創作者にとってはたんなる形容詞かファンタジーでしかない。どのような情感をテーマとしたものであっても、むしろ何らかの一貫した構造的思考がないとそもそも作品(=感情構成の再構築)が出来上がらない。身近でコマーシャルなTV番組でも、アイドル・役者のバラエティ進出、お笑いに於ける素人参加、クイズに於けるおバカ芸...と、異形を取り込んで昇華するのは大昔から芸能の本質である*2。そもそも日本やアジアには異形存在が神格化した究極的概念は「聖(ひじり)」といわれて古くからあった。>『日本霊異記』、『日本の聖と賤(中世篇)(近世篇)(近代篇)』野間宏
そして現代の聖として7〜80年代ポモ知識人達がのきなみヤケドを負ったのが、サブカルと反動を融合し「一時的自律ゾーン」を形成した麻原彰晃オウム真理教の忖度関係での場当たり自由なポア暴走ではなかっただろうか?>『狂気と王権井上章一

*1:全訳>http://www.netarts.org/taz_web/contents.html

*2:その多くが使い捨てで見られるように、残酷な行為でもある