ホロコースト・マトリックス

…と、大きく出ではみたものの、以下はその一端なのであしからず。
ホロコースト」はユダヤだけ示す、果たしてそれが正しい歴史定説か?id:hizzz:20090309#p6への反論に対する返答を含めた、id:hokusyu:20090324、id:hokusyu:20090326、id:noharra:20090405での拙コメント反論資料とか、いつものごとく込み込みで。

歴史認識手法のおさらい

巷で喧伝されるナチ犯罪否定論の主な内容とは、大体以下のようなものになるだろうか。

歴史学の研究現状では、1〜6までは即下に否定される。7については、確かにヒトラーが直接指示した資料は存在しておらず、ヒトラーの意志をどう見るかは学者によって分かれるところだが、ホロコースト政策の展開は、ヒトラーは直接、ヒムラーやハイドリヒなどに口頭命令を発するか、彼らが提案した具体策に承認を与え、鼓舞しなから関与したとの点では、研究者分析は共通している。したがって、7をもってしては、ヒトラー無謬説またはナチ犯罪否定論の論拠となり得ない。と、いうところが、大方の(思想やファンタジーとしてではなく)実証科学としての歴史見解ではないだろうか。

このようないわゆる歴史修正論者の論法には、特徴的な幾つかの問題行為がある。

  • A.オーラルヒストリーの全面否定
    証言はどれも嘘か作り話。被害者証言は矛盾して出鱈目で、加害者証言は拷問のもとで引き出されたので、公正中立でない。
  • B.資料の否定
    反論に供される資料は、捏造されたもの、もしくは一読するに足らない「資格/資質」のものと、その内容プロセス・論旨如何を問わずに頭ごなしに断定する。
  • C.資料の恣意的な選択
    一次資料ではなく、信奉する党派色濃い著作者ばかりから引用する。
  • D.資料の恣意的な使用
    資料そのものの改竄。一部をもって全体とするような、文脈を無視した歪曲・断片化。政治思想理念と史実の混同。

Aのオーラルヒストリーをどう取り扱うかであるが、これはDの資料「断片化」と関連がある。いかなる証言も、資料同様それは多角的に検証されるべきものであるから、証言内容は逐次傍証を必要とするのである。とかく人の証言というものは、対面相手によっても揺れが出る場合が多い為、その各資料突き合わせの結果、完全一致する箇所と、曖昧で不完全な所、またはまったく相反する点など、不明な点は不問とする慎重かつ厳格な検証を経たうえの判断で、論旨に取り入れられるのである。「○○が△といった」から「△が正しい」のではないし、反対に「○○が△といわなかった」からとて「△がなかった」という論旨を導きだすのは、無理筋なのである。
これは、党派の上下右左を問わない。たとえその主張が思想信条的に「正しい」と考えられる王道筋であっても、そのプロセスに於いてこうした問題があるならば、学問的にその帰結は牽強付会であり、「正しい」のでもなく、手法的にも適切ともいえない。目的=主張と手段=手法の関係は、それが予め決定された目的に対して、適切(有効)か不適かどうかという、ミニマムなプロセスにダケ問題となることであり、目的は手段を正統化しないし、その反対、手段も目的をなんら正統化しないからだ。手法=分析の客観性の基準は、カール・ポパーのいう「最善の努力にもかかわらずそれを反証できない」に置く。
また、問題提起として範囲を区切って分析・討議することは実際的であり、かつその方法論自体間違っている話ではない。が、かといって、その区分け=<狭義の前提>と、より包括的な<広義の前提>では、帰結内容が180度違ってくるような論旨、狭義部分と広義・全体の整合性が取れない=スジが通っていない帰結であるならば、それが必要とした「前提」の選択方法そのものが、構成・プロセスとして不適格で、それを骨子として導き出された主張は問題がある。<広義の前提>では論旨を導けないとして、恣意的に論争家があえてやるその「使い分け」「切り分け」「分離」「分断」作業による全体ミスリードを誘うそれは、二律背反=ダブルスタンダード、時に、二枚舌、風見鶏とも称される策略的な不実行為なのである。><狭義の前提>を根拠に慰安婦問題否定した安倍普三の説など

こうした連中にとってはある話題についてともかくもなんらかの仮説を見つけるだけで十分なのだ。もうそれだけで熱く燃えてしまい、事柄がわかったと思いこむのである。ある意見を持つということは彼らにとってはもうそれだけで、その見解にファナティックに熱狂することであり、それを信念として心に宿すことなのだ。はっきりしない問題に際して彼らは、説明らしく思えるような思いつきが頭の中に浮かぶと、もう熱中してしまう。特に政治の領域ではそのことから、最悪の結果がしょっちゅう生じている。
丁寧に見ると、今でも教養人の大部分は、思想家から確信以外のなにものも望んでいないようであり、まさにこの確信なるものを渇望しているのだ。
彼らはある見解に引きさらって欲しいのだし、それによって力の増大を感じ取りたいのである。

フリードリッヒ・ニーチェ人間的、あまりに人間的な

ナチスの人種選別規定と運用

ナチスの人種差別法とは、1935年制定の「ニュルンベルク法」(ライヒ国旗法/公民法/ドイツ血と名誉を守る法の総称)を指す。その上で38年と39年に2つの反ユダヤ法が制定された。本文だけ読むと、ドイツ人とユダヤ人しか規定していないように読め、これを「反ユダヤ法」として記述してる歴史本も多いので、それを念頭に、ナチス人種差別=ユダヤ人廃絶のみと考えてしまう向きが多いのであろう。しかし、その法体系で規定されていたのは、なにもユダヤ人だけではないのである。
「公民法」で、公民とは「ドイツ人の血およびこれに類した血を有する国家所属員」と定義し、これに付随する施行令&注解書で、ドイツ人に類した血を有する国家所属員は、「ユダヤ人とジプシー(ロマ)とを除くヨーロッパ民族」と、規定している。
「ドイツ血と名誉を守る法」は、「ユダヤ人とドイツ人およびこれに類した血を有する者」の婚姻・婚外交渉禁止と、「ユダヤ色を提示」が義務づけられ、罰則規定も設けられた。これに付随する命令書で、祖父母4人中、全員ユダヤ人な場合を<純潔ユダヤ人>、3人が含まれている場合を<混血ユダヤ人>第一級混血者、ユダヤ人2人が含まれていると<半ユダヤ人>第二級混血者、1人のユダヤ人が含まれると<4分の1ユダヤ人>第三級混血者と規定した。ジプシー(ロマ)は、曾祖父母8人中全員ジプシーである場合<純潔ジプシー>、1人でもジプシーが含まれていると<混血ジプシー>とされた。
この規定に則り、市民権を剥奪され収容所送りとなる対象者は、ユダヤは純潔&第一級混血者、ロマはジブシー認定者全員と、ライヒ宰相府の見解を踏まえてSD(親衛隊情報部)長官ラインハルト・ハイドリヒが決定したという。6歳以上のユダヤ人の着衣に義務づけられた黄色い「ダビデの星」、ロマのそれは「ツィゴイナー」と書かれた黄色い腕章であった。また、アーリア人(ゲルマン系北方民族)と、<異人種の血統>とされたユダヤ人・ジプシー・黒人との婚姻・婚外交渉が禁止され、違反者は<人種恥辱罪>あるいは<血の罪>という罪状名で晒し者となるか収容所に送られた。
何よりもドイツ人(アーリア民族)の血統を守ることが第一であるナチスにとって、地域周辺住民との差異は、ドイツとの遠近によって図られた。従って、ドイツ・ユダヤ人を東部へ集団移動させる際に、該当地域に集められていたスラブ系ユダヤ/ロマは「ドイツ血統」を考慮する必要がないので、ためらわず集団虐殺したということが生じた。また食糧事情が逼迫した地域でのポーランド人などのスラブ系に対しては、飢死させては「人道上」問題があるとして、銃殺がとられた。
最初の虐殺方法は殆どが銃殺だったが、射撃執行人たちがそれに付随した断末魔の阿鼻叫喚で、心身障害になったり、自殺する者が多発したのである。しかし、最も残虐だと見られた婦女子射殺は、親ドイツな現地人などに行わせたりしてた。そこで、殺戮に直接手だししない・死に至る瞬間を見なくて済む方法として、排ガスを引き込んだガス車が考案・実施された。
1941年12月精神病入院患者で試験された後、本格的なゲットー住民への抹殺運用は、42年1月4600人のロマが最初であった。その延長戦上で、一酸化炭素より最も効率良い手段改良法として、チクロンB使用ガス室となった。1941年チクロンB実験結果を直後に現場検証したルドルフ・ヘスは、一酸化炭素中毒死と違って「何の硬直もない」「きれいな死体」を見て「ほっとした」そうだ。ヘスにとっては、チクロンB使用は「人道的」に洗練された方法なのであった。
ゲッツ・アリー『最終解決―民族移動とヨーロッパのユダヤ人殺害』では、ナチスの人種絶滅政策を、特定集団を動かすことで生まれる空間確保、ドイツ人のための「生存権」拡大、東欧に散逸したドイツ系住民「民族ドイツ人」を、「帰還」させて民族集中させる政策と三位一体をなして進行したことを、資料から浮かびあがさせる。

歴史発展の主体を集団としての種に求める人種主義は、種の存続のために個人の犠牲を強いる。人種主義は人間の評価を遺伝形質の価値によって差異化、階層化するが、価値基準そのものは個人への強制力をもつ国家から導きだされる。それゆえ人種主義は個人の自然権を疑問視し、異質なものの排除の要求をひそませている。ヒトラーがその処遇にほとんど関心を示さなかったシンティ・ロマをナチ体制が絶滅の対象にしたことは、ナチ・ドイツの人種主義の本質を物語っている。シンテイィ・ロマは「異人種」の烙印を押されたうえに、「生物犯罪学」の論理に従って抹殺されたのである。

石田勇治『過去の克服―ヒトラー後のドイツ

ホロコースト後のロマについてid:hizzz:20090309

ホロコースト賠償騒動

ホロコーストの生存者やその遺族たちが、自分たちの没収された財産について権利請求することそのものが問題で、騒動を引き起こすのではない。問題は、そうした遺族=相続人すらいない「相続人不在財産」を巡る所有権争いである。国際法も各国の法律も大体において、相続人のいない財産は、いかなる自然人も権利を持たない。
ユダヤ人は国籍に関係なく「超国家的」に抹殺された。したがって、「フランス国民」「ポーランド国民」としてではなく、「ユダヤ人」として殺された者の相続人不在財産を、各国家やそれに準ずる個人・法人が相続するのは、正当性を欠く。「ユダヤ人」として被った被害に対しては、「ユダヤ人」として補償されねばならないというのが、ユダヤ人団体が「相続人不在財産」の賠償権利を主張する際の骨子である。実際のところ、ユダヤ人にとってナチのいう「人種的ユダヤ」が本当に存在したかどうかは、ホロコースト後ではどうでもよいことで、現にその迫害は共通損害により、定義可能な「ユダヤ人」を生成したのである。
先にあげた法律問題と加えて、個人権利を収集・包括するような後付けでの上位集団の権利というものが存在しるのか、という問題である。ユダヤというだけで、孫・ひ孫など直接個人的繋がりを持たない相続主張に、疑問をもつユダヤ系もいる。
フォンケルシュタイン『ホロコースト産業―同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』が攻撃している「ホロコースト賠償問題」も、これに当たる。ヨーロッパではなくアメリカで、スイスを始め他国へのユダヤ人団体による集団賠償訴訟(クラス・アクション)が集中したのは、米国法律では、訴訟先の米国内財産を差押出来るしくみがあったからである。国際法により、国家は外国の裁判所において責任追及されない「主権者の免責」がある。しかし自国にある現地法人の財産なら、その刑罰対象となりうるのである。ユダヤ人団体はそこに着目した。世界返還組織会長には、世界ユダヤ人会議会長エドガー・ブロンフマンが就任した。彼はシーグラム会長であり、米民主党の大口献金者でもあり、クリントン大統領夫妻とファーストネームで呼び合う間柄であり、クリントン政権は2002年の任期終了時まで、こうしたユダヤ人返還要求を後押ししてた。こうした背景で、いちやく脚光をあびたのが、スイス銀行の休眠口座をめぐる集団訴訟であった。

ユダヤ人の要求に対する政治環境は良好であった。まず、当時のクリントン政権が、返還要求に好意的であった。また、ニューヨークを基盤とし、この町の巨大な「ユダヤ票」の獲得をもくろむ共和党政治家アルフォンス・ダマートは、みずから変換要求の急先鋒を買って出た。ダマートは自分が委員長を務める米上院銀行委員会で、スイス銀行の件で公聴会を開き、一躍「正義の人」となった。人道問題に敏感なメディアも全般的にユダヤ人を支持した。金融界の巨人が実は悪玉だったという筋書きはわかりやすかったし、年老いたホロコースト生存者がテレビの前で訴える姿は同情を誘った。逆にアメリカ流のメディア戦略や圧力団体との交渉に不慣れなスイスが、返還キャンペーンをユダヤ人団体による「恐喝だ」などと口を滑らせようものなら、その「反ユダヤ主義」は、ますます新聞の見出しに躍り出た。

武井彩佳『ユダヤ人財産はだれのものか―ホロコーストからパレスチナ問題へ

問題はこれを起点に、第二次世界大戦における中立国スイスの姿勢にまで拡大した。年金資産をスイス系銀行で運用していたニューヨーク市は、銀行に対して制裁発動を示唆するに及んだ。その「反スイス」世論・政治圧力の高まりに対して、銀行は巨額賠償金を支払うことで、他のスイス系企業・国家に対する請求を破棄する合意をとりつけてユダヤ系団体と和解した。武井曰く「戦争に参加していないスイスが、「戦後賠償」を行うという奇妙な状況が生まれた」。また、そうして集められた賠償金の使い方には、問題があった。スイス休眠口座賠償金は、「重要なのは、この和解金の一部が、主に旧ソ連におけるホロコースト生存者の援助に使われていることだ。ここで援助対象となる人は、スイスの口座とはなんら具体的な関係を持たない。」と武井は言う。こうしたユダヤ人団体の集団主義に対して、一部のユダヤ人は強く反発している。

以前は、ユダヤ人とは運命共同体であり、全体のためには、ある程度の個人の犠牲は必要だという認識があった。…ホロコースト直後の困難な状況においては、個人の権利より集団の利益を優先させるほうが、最大多数に最大の善をなすと考えられたのだ。
しかし民族の存続そのものが危機にあると認識された時代が過ぎると、ユダヤ世界の求心力は薄れ始めた。イスラエルユダヤ人国家への支持を訴えれば訴えるほど、そのような半ば強制されら集団性を拒絶する人間が増えた。
結局、ホロコーストで残されたのは誰の金なのか。ユダヤ世界の指導者たちはこれまで、ユダヤ人犠牲者すべての金だと、答えてきた。しかし現在のユダヤ世界では、ユダヤ民族共同体の一員である前に「個人」であるという、ある意味では当然の反論に対して有効なイデオロギーは、もはや見出せなくなっているようだ。

さらに、イスラエルとの関係がネックになる。1952年西ドイツでイスラエル/対ドイツ物的損害請求会議とのあいだで調印されたルクセンブルク補償協定により、ホロコースト生存者の受け入れにより経済負担が講じた補填として、イスラエルが受け取った補償金は、国内「インフラ」用のドイツ製品購入に多くが使われた。日本のODAの仕組みと同様、第一にドイツ産業が潤った。後、ユダヤ人口を増やす為にアラブ諸国からかき集めた、非ヨーロッパ・ユダヤ系の人々の援助に使用されていることは、公然の事実であった。

人間の強制的な移動・除去において、共通して現れるのは、追われた者の財産が、後から来た人々の生活再建の原資となり、しかも、後からくる集団とは、往々にして、彼ら自身が他の場所から追放された者であったという事実だ。
さらに、不在者の財産を手に入れるのは、不在となった集団より社会的には下位に位置していた者であることが多いという点も指摘できるだろう。…ズデーテン地方をはじめ、戦後にドイツ系住民が追放された後の住居に入居したのは、ロマであることが少なくなかった。
イスラエルにおいても、アラブ人の家をあてがわれたナチ犠牲者は、イスラエル社会の辺境的存在であった。ホロコースト生存者とは、ディアスポラの過去を象徴する「強い」イスラエルのアンチ・テーゼであった。しかし彼らも経済的に自立すると、徐々に中産階級が暮らす地域へと移っていった。その後には、遅れてきた移民、つまり社会的にはより下位であると見なされたアラブ系ユダヤ人ミズラヒームが入ってくるのである。

・『ホロコースト産業』について
http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_hb/a6fhb811.html
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20061004NGFinkelstein.htm
イスラエル建国〜パレスチナ紛争についてid:hizzz:20090214

意図か機能か、不毛な歴史家論争

「絶滅命令」は具体的には、いつ、誰に、なにを、どのように、どこで、といったことに関して、人種絶滅作戦の総統指令を直接証拠づける資料がない中、ホロコーストが起こった要因について、歴史研究者の中では意見が2派に分かれた。「意図派」とは、ヒトラーないしナチ指導者が始めから意図していた結果であるとする説で、「機能派」とは、流動していく状況下で特に独ソ戦開始以来具体化されたとする説である。が、そんな形式的二分法で歴史事実を説明できえるものではないことが、ここ10数年の論争と実証研究を通じて明白になってきた。
ドイツでは1995年に歴史家ハネス・ヘーアを中心に、ハンブルク社会科学研究所が主催した、『絶滅戦争─国防軍の犯罪─1941〜44』という巡回展示会が始まっていた。これは2004年まで、ドイツ国内外の多数の都市を巡回した。これが話題になり、ドイツ人に衝撃を与えたのは、これまでナチス国防軍との間には一線が設けられていて、世論的に国防軍は、犯罪的には「シロ」だったからである。1996年刊行したハーバート大学教授ダニエル・ゴールドハーゲン『普通のドイツ人とホロコースト―ヒトラーの自発的死刑執行人たち*1は、ホロコースト現場の人たちに焦点をあて、実際の殺害実行犯たちの内面を分析した。そして、ルターの「ユダヤ人とユダヤ人の嘘」以来「400年にわたって普通のドイツ人の中に蓄積された排除的絶滅的なユダヤ人憎悪」なるドグマが、戦時下の残虐なユダヤ人殲滅行動の動機根拠であると説明した。が、そのあまりにも判りやすすぎる単純直線的解釈が、世界的批判を巻き起こし、ゴールドハーゲンは激しく非難された。またこれへの対抗軸として、クリストファー・ブラウニング『普通の人びと―ホロコーストと第101警察予備大隊』がクローズアップされたりもした。『普通のドイツ人とホロコースト』よりも先行していた『普通の人びと』は、ゴールドハーゲンが使用したのと同じ資料を扱った、1942年夏ドイツ占領下ポーランドでのユダヤ人射殺部隊としての警察予備大隊に着目したものであるが、なぜ「普通の人間」が残虐行為を行なえたのかについての十分な説明は記述していない、ミクロ研究であった。これらを指してホロコースト史学的には、「ゴールドバーゲン論争」という。ハーバマスは、この本によって我々ドイツ人は、自分たちのメンタリティに潜む問題に気づき、それは60年代後半以降の批判精神と憲法愛国心に沿ったものであるとして、政治的にゴールドバーゲンを擁護した。しかし、一部の憲法愛国派が熱狂的にこの本を支持したのは、「戦前あった反ユダヤ主義・狂信的イデオロギーは、戦後ドイツは存在しない」と断定して過去と切断したところ=現在の自分たちとは関係なく断罪できるナチ犯罪であったこと、「メンタリティに潜む」現在的不安を払拭する作用をもたらしたことが大であった。
ゴールドハーゲン説なら、ドイツ地域ではルター以来400年間殲滅作戦が、為政者・平民を問わず日常的に多発していなければならないが、実際はそんなことはない。また400年間もしつこく続いてきたものが、そんなあっさり現在存在しなくなるとは考えがたい。現存している極右やネオナチはどう説明がつくのか。ブラウニング説の「ユダヤ人射殺部隊としての警察予備大隊」は、「普通の人びと」とは言い難い。第二次世界大戦の枠組みが出来上がった1942年の状況下では、警察予備大隊といえども、その殆どはナチ党員であり、前線後方地・占領地に派遣されているのである。その状況に至る背景や全体・地域作戦行動との関連性をブラウニング本は明らかにせず、ただ残虐行為が叙述されているのである。とまれ、「普通の人びと」が特定集団を選別して大量虐殺を集中的に行うことはありえないし、「普通のドイツ人」は、特定集団の差別・迫害に直接・間接的関与した遠因関係はあろうが、大多数はナチ大量虐殺への直接的関与までは問えないだろう。

白ロシアを研究したゲルラッハは、ユダヤ人の犠牲を地域民衆の被害全体の中に位置づけて、つぎのように言う。…44年夏にソ連軍がここを解放したとき、かって920万人だった住民は700万人よりもずっとわずかになっていて、しかもそのうち300万人は家を失っていた。…約70万人のソ連時捕虜が白ロシアでドイツ人によって殺され、50万人から55万人のユダヤ人、35万人の農民や難民が「いわゆるパルチザン戦の犠牲者として」殺されていた。この他さらに38万人が強制労働者として帝国ドイツに連行されていた。…ドイツの占領政策との関連で…白ロシアユダヤ人の大部分は、地域的な殺害作戦で殺されたとしている。…そのような殺害作戦の開始、継続期間、規模は、ライヒ保安本部による移送列車や絶滅収容所のキャパシティの割当によって決められたものではない、とゲルラッハは中央による統一的な指揮命令を否定している。ドイツのソ連占領地におけるユダヤ人殺害の展開の論理と西ヨーロッパ・総督府のその展開の論理とは違っているのである。

永岑三千輝『ホロコーストの力学―独ソ連・世界大戦・総力戦の弁証法

しかし、ポーランド総督府地域はゲッツ・アリーが書きだしている通り、もっとも劣悪であった。

ヒトラーポーランド征服で獲得した地域をライヒ領土に編入し、ヒムラーを民族強化全権に任命して、地域の民族強化を託した。その地域の「根本的新秩序」を創出することが課題となったが、この東部の4つの管区には810万人のドイツ人、850万人のポーランド人、61万人のユダヤ人、その他、ウクライナ人、ロシア人、チェコ人など18万人がいた。ヒムラーはこの「東部地域」にバルト地域などの民族ドイツ人を入植させ、そのためにポーランド人やユダヤ人を排除する政策をとった。排除されるポーランド人やユダヤ人はポーランド人居住地域として設定され「ゴミ捨て場」に位置づけられた総督府に追いやられることになった。比喩的に言えば、「ゴミ捨て場」総督府のそのまた「ゴミ捨て場」に位置づけられたゲットーは戦争の長期化と総力戦の中で、悪臭芬々、死屍累々たる場へと貶められた。

このような複雑な状況が、先のスレッドのホロコースト賠償請求での「ユダヤの被害はユダヤに賠償」との単線主張とは相いれないものであるのは、いうまでもない。
id:hizzz:20090204#p5で紹介した1980年代の『過ぎ去ろうとしない過去―ナチズムとドイツ歴史家論争』歴史家論争は、ナチスユダヤ人絶滅政策を、唯一無二と見るか(ユルゲン・ハーバマス=左派)、比較可能なものであるか(エルンスト・ノルテ=保守派)をめぐる、ウルリッヒ・ヘルベルト曰く「学問的にはまったく収穫のなかった」論争だった。石井勇治も「それまで曖昧であった歴史家の政治的立場が鮮明になっただけである。」と見る。この論争が「歴史論争」でなく「歴史家論争」と言われる所以は、ハーバマスは社会哲学、ノルテは歴史哲学と、歴史学ではない処で発生して争われたもので、大抵の歴史学者はこの論争を、歴史学術論争ではなく思想・政治エピソードの一端として取り扱われている為である。ハーバマスにとってホロコーストとは、それに象徴されるナチ犯罪を絶対無比のものと規定し、それこそが戦後ドイツ民主主義の原点であり、その反省こそがドイツ連邦共和国の歴史的アイデンティティの基盤をなす、正負二面性をあわせもつ「唯一無二性」ものであった。その主張は、ドイツ国策に取り入れられた。が、それは、列記したこのような総督府白ロシア地域を考慮しなくてよかった冷戦時代、「西ドイツ」という<狭義の前提>だけ鑑みてれば良かった時代背景で、出された政治戦略的帰結なのである。厳密な普遍主義を主張するあまりに硬直化していたハーバマスは、1994年5月ドイツにおける社会主義統一党の独裁の歴史と影響の克服問題調査会のヒアリングで「左派は全体主義的政権に固有の共通性を無視してはならない。両者に共通の尺度をあてはめなければならない。右派はまた両者の相違を標準化してみたり、または相違の度合を低く見積もってはならない。」と、穏当な線を述べた。

ホロコースト研究の歴史と現在」ウルリッヒ・ヘルベルト
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/Herbert20010228.htm

*1:高い本ですみませぬm(__)m。論旨はともかく、当時の雰囲気を掴む読み物としては面白いです。

ホロコースト研究の新潮流

21世紀にはいって起こったヨーロッパ史学研究をとりまく変化とは、大きく分けて3つある。1.統一ドイツ後、東側で保管されていた資料が次々公開となり、研究が深化した*1。2.ECという政治枠組みが生成されその東方拡大は、ナチ犯罪の捉え方も、ドイツ1地域からヨーロッパという多国間で捉えねばならなくなってきた。3.国民vsユダヤといった単線だけではなく、ロマを始めとしたこれまで周縁化されていた少数民族を含めたマイノリティ集団や外国人強制労働者などの戦争被害者たちが、さまざまに帝国ドイツ&ナチスと関係してたことの重要性である。そこに至る意識の変遷には、ユーゴの民族紛争・コソボ空爆という、新たなるヨーロッパの痛恨というものも加味される。国際秩序重視でこの空爆を断固支持したハーバマスは、後で少し手段は不適切だったと軟化したものの、それは「反戦平和」が大原則であった左派陣営を震撼させるものであった。その後ハーバマスは、そのゴリゴリのカント的世界市民秩序・強者的普遍主義から拡大?して「寛容」を説き、イラク戦争の後、相容れない論敵・脱構築主義のジャック・デリダがいう「歓待」と、コスモポリタン的合意に基づく共同声明を、2003年出して、従来ではありえない展開に両者のフォロワーを驚かせた。>id:hizzz:20090204#p6、id:hizzz:20090103

ユダヤ人だけを見てジプシー、その他のマイノリティを見ることができなかった歴史意識の限界を克服し、総体的な諸要因を俯瞰しうる今日の世界と研究の到達点に立って、第三帝国支配下の苛酷さの事実と意味の関連を把握することが現代の課題になっている。アウシュビッツだけを問題にする歴史感覚、ドイツ人に「恥や罪の感情」だけを再生産させるような議論の仕方は建設的ではない。過去の事実に理性的に直面することに資するためにこそ、総体的な方法論見地に立った歴史研究が必要である。活発化している20世紀の多様なジェノサイドの比較研究はそれに貢献するであろう。ブローシャトの言うように第三帝国の犯罪を他国の罪と比較し、人類史の中に適切に位置づけ、その意味で「相対化しバランスをとること」は悪しき相対化論ではなく、ましてや否定論でもない。科学的比較はそれぞれのジェノサイドの基本的本質的な差異をも明確化する。それは、公式的なナチズム把握の問題性を認識させるものである。アウシュビッツ否定論のような偽造・捏造による「歴史意識の誤った正常化」や歴史家論争で見られた「非常に劣悪な無意味な比較」を排し、現代的課題に応えるためには、今後とも、大量のエネルギーを要する実証的比較研究が、問題接近の方法の洗練とともに必要なのである。

永岑三千輝『ホロコーストの力学―独ソ連・世界大戦・総力戦の弁証法
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/kogikeizaishi20011217.htm

戦後のドイツ歴史教育の変遷を研究している川喜田敦子『ドイツの歴史教育 (シリーズ・ドイツ現代史)』は、「ナチの過去と取り組むということは、また、戦後ドイツの「過去の克服」のあゆみを批判的に問い直すことでもある。」と述べる。また、これまでの「過去の克服」理解方法=ホロコーストアイデンティティ憲法愛国心では、戦後移民してきたトルコ系などの外国出自住民には通用しないことも指摘している。

もちろん、アウシュビッツは特殊である。しかし、おそらくアウシュビッツとそこで殺されたユダヤ人だけに話を絞っていては、自分たちのための追悼という悪循環から出にくいのではなかろうか。すでにホルクハイマーとアドルノは『啓蒙の弁証法』で、アンティセミティズムについての考察を、ユダヤ人という民衆─宗教─集団儀礼の問題を超えて論じていた。ベルリン工業大学にあるアンティセミティズム研究所でも、もはや反ユダヤのメンタリティや運動の研究をとっくに超えたところで仕事をしている。にもかかわらず、メディアも、さまざまな催しもユダヤ人中心である。
それによって生じるのが、先に触れた死者の選別である。たぐい稀なる文化を持っていたユダヤ人への無差別殺人は文化的喪失とも感じられるが、ドイツ人によって殺された他の人々については、ほとんど触れられないか、触れられても義務的な感じを免れない。シンティとロマ(ジプシー)について必ず触れられるようになったのは、それほど昔のことではない。しかし彼らに対しては文化的喪失感が乏しいだけに、国家的追悼の気持ちも、推し量りにくいところがある。
パブリック・メモリーの選別性を批判し、犠牲者にまでそうした選別性が及ぶエスノセントリズムを論じる「批判の批判」はしかし、リベラル左派のコンセンサスに依拠したこれまでの過去批判の発言が嫌いである。政治家が行うドイツの過去への批判は、リベラル左派の知的な力のゆえであり、またそれに支えられてもいるのだが、そのどちらにも理論的なつめの甘さを感じるようである。そこには、ヒューマニズムリベラリズム、左翼による権威批判の三者は実は一体となって、選別と排除を行っていたのであはないか、過去への反省の中にもエスノセントリズムがあるのではないかという、嗅覚が働いているのだろう。

三島憲一文化とレイシズム―統一ドイツの知的風土

もっぱらドイツ人加害/ユダヤ人被害中心で進んできた、その過去への反省「過去の克服」の中にひそむエスノセントリズムが指摘されていた、リベラル左派の中では、ユダヤ人追悼&保障に標準を合わせ、その一定の成果に満足し少数派犠牲者をないがしろにしてきた政府*2に対しては足並みを揃えども、折角保守派に対抗して作り上げたリベラル・コンセンサスが崩れるとして、リベラルを支えてきた自分たちが内包していたエスノセントリズム性への指摘・批判には反発する者もいた。アナール派のジャン=クロード・シュミットは、フランスやドイツの其々の一国単一主義に対して、「批判勢力自身が、実はエスノセントリズムにとらわれているのは、我慢がならない」という。昨今のマイノリティ運動が推し進める多元主義によって、主流リベラル左派のエスノセントリズム性が明白となり、「リベラル」自体の内実・硬直化を問われたのが、2000年以降のムスリムとのコンフリクトであった。>id:hizzz:20090324
石田勇治『20世紀ドイツ史 (ドイツ現代史)』では、「現実政治における文脈転換と並行して、歴史学でもホロコーストをめぐるパラダイム(認識枠組)の転換が生じている」として、ホロコーストの区別や切り分けではなく、むしろこうした東部戦線で生じた迫害虐殺を含めた包括的問題「複合ジェノサイド」として取り扱うことを推奨している。また「CGS:ジェノサイド研究の展開」と共催者DESK(東京大学ドイツ・ヨーロッパ研究室)の代表を務める石田は、ジェノサイドを「国民的 national 、民族的 ethnical 、人種的 racial または宗教的 religious な集団 の全部または一部を、それ自体として破壊する意図 をもって行われる殺人などの行為」と規定し、「私たちが数年前に別れを告げた20世紀は輝かしい「文明と民主主義」の時代であると同時に「戦争と虐殺」の時代でもありました。ジェノサイドはまさにこの文明の時代において、世界の各地で頻発し夥しい数の人間がその犠牲となりました。ナチ・ドイツによるユダヤ人虐殺(ショアーホロコースト)はその一例に過ぎません。」と、そのシンポジウムで挨拶している。

ホロコースト研究はいずれ比較ジェノサイド研究に統合されるであろう。この比較ジェノサイド研究は、二十世紀のヘレロ族の虐殺で始まり、オスマン帝国アルメニア人虐殺を含め、さらにカンボジアルワンダスーダンやその他の国々での未曾有の破局を視野に入れ、スターリン支配下ソ連のような、住民に対する国家的テロをテーマとし、必然的にジェノサイドやテロについての新たな定義に至るであろう。そしてこの定義は、ホロコーストのいかなる次元の歴史的犯罪の序列化、相対化、また周縁化を意味するものではないのである。

ヴォルフガング・ベンツ『ホロコーストを学びたい人のために

*1:当時のドイツ公文書も2006年一般公開された>International Tracing Service http://www.its-arolsen.org/en/homepage/index.html

*2:それはロマだけではない。例えば、政府補償を受けるには名乗りでなければならないが、最近まで犯罪に法規定されていた同性愛者は、役所でカミングアウトするのは相当な苦労を伴うであろう。強制不妊手術をされた女性もしかりである。また、800万人と推定されている外国人強制労働者と、旧共産圏諸国の犠牲者に対してのフォローは殆どされてこなかった。