ぶろぐでモテモテ

「モテ要素の一つ」としてブログがあがってきたそーな?

自分の趣味や性癖を全開にしつつイヤミのないコメントでのらりくらりとやるのがモテる秘訣じゃよ。主張は控えめ。あたりさわりのない中にもさらりとセンスを忍ばせて。

日日ノ日キ
http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20040605#1086417603

ほえ〜。そーか、そーか、そーなのか。自分の趣味や性癖は出さずイヤミなコメントでシバキ、主張バリバリで、あたりさわりありまくりの返答しようのない妄想ウンコを人のお庭に行っても展開…まるで正反対ヤッテルぢゃんワタクシ。ナウくない(爆笑)。だめぽ。。。

電車男

各方面で「愛と感動」の大絶賛の嵐だった、電車男。ここは優しく笑ってみすごそーかとも想ったが、それでは「ヒネくれまくった」とか「いけず」とか一部方面(え?全方面的?)で言われているワタクシの書込キャラ(え?リアル人格的?)に反するので、期待に応えるべくヲトナ気なくつっこみをいれておくとしよう。
感想としては「なんだ、皆、変わりたいんだ」ってことかナ。内容がネタだろーが事実であろーがなかろーが、パッピーエンドか玉砕か、んなことはどーでもよろし。だってあの一連のハナシのポイントは、電車男が変わってく「勇気」過程が表現されてるトコだもんな。わかっちゃいるけどヤメられないとか止まらないといった自己執着による安心から外に出て関係呼応しようとして、実際にひとつひとつトライ&エラーしていく様が関心を呼んだんで。ジミチに変わっていくというのはどういうことかってことが、変わりたくても変われない人々にライブ感をもって伝わったからこそ、感動を呼んだ最大の原因ではないかな。
自分はそのままで、そのままの自分を相手が解れ=変われというのは、「相互関係性」という視点からすれば、カナリ御無体な要求なんだよね。関係を持つというのは呼応可能性ってことなんだし。でもそのことは、スレ住人も重々解っちゃいる、、、けど…、と。なんにせよ、判断と履行の間をどう克服して繋いでいくかって重要なテーマだよなぁ。

佐世保の小6殺人

佐世保の小6がネットで親友に悪口を書かれたから殺人したとして、またぞろお決まりの「ネット」たたき。それと「少女の心の闇」ときたモンだ。なんだかなー。容姿をあげつらわれたってのを根に持つのは少女特有?女性なら殺人をしないもの?ウソつけ。
ネットなんか、大昔でいうなら交換日記とか回し手紙の内輪ノリだろう。そこで悪口カキコしても、んなの別に驚く行動ではない。したり顔ですべからく都合の悪いものは、歴史の浅いもののセイとか性別特殊性問題に収斂排除して自己セカイの安心を得ようとする大人がいるというダケ。まあ、泡立って能動しまった加害者は、そういう処理方法=処世術を身につければ、そりゃあ確かになんとかなったかもしれないが、そんなコトを事後的に12歳にいってもなぁ。
殺人迄しないものの、20過ぎてもそゆ処世術が身についてないで好き/嫌いの共感/反感で脊髄反応判断しかしないひとは沢山いるもの。関係性をつなぐ為の悪口なんてぇのも、良くある手口だしなー。自分が世慣れて変わってしまって、その変わったってことに無自覚で、無自覚の担保に〈少女〉は無垢で純真であるのが正しいとそう思い込み実際の対象者に押付ける(囲い込む)ことで、かってあった子供時代の自分の過去をも漂白しようとしてるんぢゃないのかな?
子供は〈個〉が確立してない故、動物的で短絡的だから残酷である。他者性/社会性がないけど能動パワーはあるから、目的の為ならなんだってやる自己中だ。ただ子供ゆえにマキャベリスチックにその欲望を冷徹に構成実行できうる技術能力に欠けているので、失敗が多いってことなんで。今回の事件は、いろんな条件が重なって上手く行き過ぎたってことなのではないだろうか。
http://kangaeru.s59.xrea.com/13.htm

コンフリクト

議論とか文章作法に関してはid:hizzz:20040322#p2以下でカキコしたとおり。さてはて議論をしているつもりで結果としてコンフリクトを起こしてることは残念ながら多い。ワタクシの解釈では以下になるかと。

  1. 議 論
    行為:お互いの論点&根拠がある、相手意見を踏まえて意見
    内容:論点に沿った意見交換
    目標:相互論点の明確化、妥協点をさぐるかオルタナティブ

  2. 論 争
    行為:お互いの論点&根拠がある、相手の意見を踏まえない
    内容:手続き論/前提論での是非
    目標:自分の考えを相手に認めさせる

  3. バトル
    行為:お互いの論点&根拠不明
    内容:人格攻撃
    目標:相手を全面降伏

  4. バトルもどき
    行為:片方は議論、片方は自己セカイ構築
    内容:論点外の論点拡大
    目標:自己存在プレゼンス?

通常「バトル」という言い方で言われているこうしたコンフリクトは、狙ってする「荒し」とは違い、ちょっと意見がいいたかったんだという気持ちで書込がなされたのが、当人の思惑外に展開してしまったことに拠る「バトルもどき」が大半ではないか、と推測する次第。
ハナシが、内容そっちのけで論点が成立つ前提とか、論成立の順序や資格といったコト中心(為にする議論)になると大抵キナ臭くなる。内容に踏込むのがなんらかの理由でマズい側が、そういうトコへハナシを振るのが常なんだけどね。
あ、ちなみに朝生でヤラれてるのは、大抵、折伏の為の「論争」以下かと(苦笑)。

補)バトルもどき

「片方は議論、片方は自己セカイ構築」という行為を羅列すれば、いかにも「議論」行為が正しくて、「自己セカイ主張」行為が間違ってるとおもわれるかもしれない。しかしそういうジャッジの仕方自体、そこもまたひとつの価値観=自己セカイによって自明視されてるものであるという、客観的認識を持っていないと相互関係の齟齬はつきない。
解りやすさ/普遍をめざし「論点を明確にする」議論というものの便利な機能が「〈個〉別意見」に及ぼす影響に関して、大抵のひとはとかく無関心になりがちだ。そのめざすところの「普遍」基準自体が、もろもろの観点からの選択された暫定解であるにもかかわらず、その恣意的基準に於いてそれ以外の可能性を否定するのが、普遍的妥当であるとジャッジする強弱関係になるのである。要はその強弱をめぐる立ち位置バトルっすね。
「ちょっとした意見」が、議論者にかかれば議論者の予め持っている自説ライン上の正/負の2極のどちらかに強制的に位置決めされてマナ板の鯉状態、その上で自説の都合よく料理される。時には叩かれる。そりゃ、たまったモンでない。コンフリクトが起きない訳がない。
何度も例を引いてるけど、イラク人質事件に対する「ちょっとした意見」が、政府/反体制の論者達の自説にいいようにさんざん利用されてますな。
すべからく放たれる語彙は整合性取れナニひとつ間違っていなくても、議論手法が他者に向かって開かれてナイことには、関係性もクソもない。方法論的レトリックだけ肥大させることは、正論を建前として議論手法を取っていようとも、やはりその作為目標は「自己存在プレゼンス?」ってことには、変わりないかなーと。

〈受け手〉と〈送り手〉

oxyfunkさんが、「私は人間が嫌いだ。」そういう人がビデオジャーナリストに向いているという例でコミュニケーション問題を語られてる。

弱者への想いが「私は人間が好きだから」と出逢った時、僕はいったい何を観ることになるのだろう。<送り手>の善意によって見せたいところだけを無邪気に記録した、とても恣意的なものになってしまわないか。

凸と凹の間
http://d.hatena.ne.jp/oxyfunk/20040605

ビデオというメディアのハナシなので、〈送り手〉→〈受け手〉という一方的な強弱関係が明白ではあるのだけれど。善意=弱者の代弁を気取って泡立つ最近のメディアは、あまりにもこれを忘れているんだよね。リアルな映像が映し出されることで、〈受け手〉には(〈送り手〉さえも)フレーミングという主体=恣意的選択が背後に隠れちゃいがちで、かくしてそれが神の視点のごとく「真実の映像」として放映されたりして。
メディアに限らず、弱者への想い、共感は、ひとの姿勢としてとても美しいのだけど、それはしばしばひとの判断を狂わせる。そういった感覚的印象をそのまま身体化して、弱者という恣意的に選択&ラベリングした他者をかりた「特権的な善意」を客体的に発動してる(=〈送り手〉になる)ということに、〈送り手〉は無自覚になりやすい。「善意」や「共感」という欲望で自分の耳やその他の感覚がふさがれてないか、常に注意して開けておく必要があるのかもしれないな。

伝達プロセス

伝達率自体については、id:hizzz:20040310#p2でカキコしたんだけど、さてそれでは伝達率自体を上げようと厳密な議論にしようとすると、「正論」の跋扈はよのなかを狭くする。id:hizzz:20040424 それは何故か?「説得される」という政治性がそこにベッたりとはりついてる分、正論なら正論で自己設定コマンドラインなセカイで完璧に完結してるほどに「支配権力」が発動されて〈受け手〉の入る余地がないばかりか逆に実存全体を脅かし、感情を逆なでするのである。で、大抵「説得」すればする程、それは一時的な効力しかもたない。「反感」感情が高まるからである。
そんな「正しさ」は、数値や文章上では達成しえても、人間関係ではそれは通じない。通じないのを「民度が低い」だの「教養がナイ」だのと切って捨てるのもそれは論者の勝手であるが、結局は通じない論を延々と論拠だててる方のタコツボな徒労におわる。他者がすべからく自分の鏡像でもないかぎり、この方法論を共有する者を増やすことは、まずもって不可能である。
ぢゃ、どーするか?伝達とはどういう行為かというのをまずよく考えなくてはならない。そして世の中の伝達方法は「正論」をガリガリプロパガンダするのみであろうか?大量伝達といえば、広告は「説得」を目的として作られているであろうか?確かにテレショッピングは「説得商法」であるが、すべての広告宣伝がそうではあるまい。なぜ「正論主張」しないのか?それは、正論説得は、TV等の平場においては対費用効果がなく販促につながらないからである。逆に対面販売やセミナー等の囲い込みに於いて説得販売は威力を発揮する。後で「反感」があったとしても、そこで契約成立してしまえば、それでいいからである。id:hizzz:20040210
「説得」ではなく「納得」を目指す方が、伝達率は遥によい。「説得」というのは認知に於いてはムリヤリ支配客体化されることだが、「納得」というのはそこに主体的行為がかかわることになる。「共感」というのも、「説得」されて沸き起こる感情ではなく、「納得」して持ちうるものである。だから「共感」は自己身体化しやすいんで。まあ、こずるい手としては、「納得」したように見せ掛けて「説得」するということもあるけどね。
伝達にいかなるロジックを駆使しようとも「説得」というのは支配プロセスであり、「納得」というのは関係性プロセスで、このふたつは似て非なるものなんではないだろうか。そして、そのロジックと媒体の使い方を間違えて自論立証=一直線なコマンドラインの為に現実を矮小化&オミットされ、その論成立故に前提とした問題解決にならない論を「正論」として声高に立てる方が、御高説を説く「識者」の中に結構いらっしゃる(苦笑)。なんだかなー。