ふるまい=型としての一致団結

kmiuraさんとこへ2年前にしたコメント
「サムライを日本の表象とする最近の風潮ですが、「恋のはじまりの至極は片恋なり/主従の内など、この心にて澄むなり」(葉隠)つーことで、近世前期以降の「家」は、主君従者の情緒的な結合関係で、両者間での忖度と慮りの暗黙知=心情と利害の共有がプライオリティ。しかしこの情緒的モラル結合は、論理=ルールを持たず半永久的な二者関係として閉じられることにより、二者関係→主従抑圧のヒエラルキーの重なりというさらに深い内面的緊張の連鎖は、共同体の仲間はおろか自己存在そのものを信じられないという自己矛盾ループをもたらしています。本来非概念的なものの制約を受けて成り立ってる理性は、その制約の範囲内でしか有効でないのにもかかわらず、社会に向かって野放図に発展させるから、難解/困難を伴うんです。慣性情緒=共感な繋がりであり掲げるイデオロギー=論理は建前にすぎない所には、いくら外部/他者が「ウヨク化」と言っても、内部結束を強化するダケに終わり無意味なのです。ウヨ/サヨ双方共そのように言葉=論理を根本的に信用してないからこそ、「一致団結」というカタチ=ふるまいを表すことこそが重要な内部社会承認=精錬の美学であるのに、内部なクセにそれにケチをつける者はなによりも許しがたいということで、今度は排他/いじめのプロセスが進行します。
そのように「近代への抵抗」として「所有と実存」の方法論というウヨ/サヨ成立過程&運営は同じですから、実存的葛藤なしに「転向」はいとも簡単に起こるんですよね。それは自民党の派閥争いと同じです。更に「現代への抵抗」として加わった「多様性/多文化」をどうするかで、自己決定の個人主義的自由追求か人体的自然管理として公共平等化追求かの論理展開の中で、そのどちらにも分けられない情緒的結合体の内面的緊張が表現されてるのかと。それは、ウヨ/サヨに関わらず、はてな界隈なネット話題「儀礼的無関心」〜「弱者男性/非モテ」もまったく同じなんですよね。 」http://d.hatena.ne.jp/kmiura/comment?date=20060901#c

事の仔細は上記urlを辿って頂ければよいのであるが、ウヨvsサヨの政治的マターの攻防がネタではあるが、その政治マターを超えて要は「(外)敵の有利になるような身内批判をするな」つー行動規範に立脚している(そういう制止をして一致団結しなければ成り立たない?)立ち位置の面妖さについてということである。

「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」

引用している『葉隠』が編纂されたのって、江戸時代も中期のこと。徳川幕府体制も安定して、そうそう武力実力行使で「下剋上」も「死ぬ事」もなくなった官僚侍たちに必要とされた訓話。まあ、めだたずおちこぼれず、なまぬる〜く勤めている子飼の「昼行燈」さんたちに、藩主の偉さを説いて活をいれようとした文章なんである。
しかしその当時の主流の思想(朱子学を主体にした徳川武士道)にそぐわず、藩内では禁書扱いにされてしまった体たらく。それが、朱子学(「劣った東洋」)を払拭する明治にはいってから、西洋の聖書に匹敵するものとして「武士道」を倫理思想として御一新普及されたという顛末。『葉隠』にいろんなおひれはひれがつくのは、明治期なんである。
もともとは鎌倉時代の「御恩と奉公」という具合に武士と主君はイーブンの関係であり、武士は自分の腕一本で高報酬を求めて主君を渡り歩く個人事業主。しかし、それだと主君側は安定しない。したから「2君にまみえるな」だの「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」と、主君にはつごうのよいような「現状維持」でできている。その愚直で一方的なモラルはまさに「片思い」そのもの。

情緒関係と自己存在

しかし、いっくらそういってもそうそう他人に一族郎党の命かけてなんかやってらんない。結局はこの関係のままでは食っていけないので、幕府が崩壊したのは歴史的事実。其処まで行く前に、激しい自己矛盾をかかえるというのはどういうことかというと、「義理」と「人情」の葛藤という手垢のついたドラマ主題でおなじみのそれである。自己の在り様が自他共に確定できえない者(主君の指示ない単独状態)=大政奉還後の薩長以外の主君を喪失してた侍は、急変する状況下、斜陽化していく藩(故郷)&自己身分立場と一族郎党の生活というその2つの価値観の中で苦悩する。そのこと自体に自己存在を見出すというヤヤコシイ自己愛を発揮する人間臭いオレ様は、現代でもよ〜く見かける。
どうしていいかわからない現状維持を取り急ぎ自己肯定する為に、分析や提案や行為結果という整然とした論理ではなくあっちこっちにブレまくる「ふるまい」をもってして状況に(対峙しているのではなく)附き合う=仕えるというさまを最も貴ぶモラルとみたて、苦悩を媒介にして自己を通す*1。こうした理性でない情緒的ヒエラルキーの中でお互いに満足していれば問題はないのであるが、困ったことにヒエラルキー内での循環が起こりえないので、常に下部に不満が鬱積する。あとは、お決まりの不穏分子を黙らせるか排除、もしくは共通外敵をこさえてそこに反感情緒を集中させるかである。
あるヴァーチャルリアリティ(=思考世界)の「恒常的な立ち上がり」によってアクチュアリティ(実在感)が生じ、それがリアリティ(現実感)の生成を触発し、あるリアリティ(事例)に吸着して顕在化するさまを、木村敏は以下のようにいう。

バーチャルな感覚は、ヒトの集団行動に於いては集団全体の主体性に吸収されてしまうことになるような、個別主体性成立以前の基底層で感受されることになるのに違いない。これに対して感覚が「現にいま感じられている」というようなアクチュアルな現前意識は、無意識でヴァーチャルな「集団感覚」と、意識的に表象された「個体感覚」とのズレそのものとして成立し、しかもそのズレは、それが成立すると同時「主観的時間遡行」の機制によって実質的に消去される。いいかえればアクチュアルな現前意識は、成立するやいなや直ちに対象意識のリアリティによって覆い隠される。

木村敏関係としての自己

なにしろ最近の「市民派」となのる人々だって、問題についてのジャッジ基準に「共感できるか・否か」を公言してはばからない現状、このような行動様式に於いて、もうはや政治思想の保守革新・ウヨサヨの差はまったくない。

*1:どうしていいかわからないときは、とりあえずの現状維持が一番合理的ではあるのだが、それはつねに一時しのぎでしかない暫定解である。

勅諭&勅語の有効範囲

さて、また歴史にもどると、『葉隠』的なものもミックス*1された武士道を基として陸軍向けにこさえたのが、『軍人勅諭1878年
「忠節・礼儀・武勇・信義・質素を旨としてお国の為に身を粉にして玉砕していった立派な兵隊さんたちは、そんな酷いことなぞする筈もありませぬ」というのが、歴史修正派の大きな柱なのであろう。無論これに『教育勅語』もセットでつく。薩長の天下とはいえ人材不足。没落した士族だけではなく、「軍隊入れば銀シャリが食える」と農民町人をかきあつめて発足したてんでばらばらな出自思想身体をもつ連中をなにか高次のものでしばってひとつに纏めて集団化する必要がある。天皇と上官=薩長の指揮に従う根拠として「武士道」をリニューアルさせバーチャルリアリティとして提示し、没落士族には祖先の栄光を農民町民は武士たる栄誉を国家システムとして保障し軍隊というリアル集団身体を顕在化させるのが、『軍人勅諭』の目的であろう。
いやだからね、その「忠節・礼儀・武勇・信義」というのの目的と範囲が、天皇〜軍隊内でしかないハナシを外部にひろげたから、事が問題化したのである。その中身は天皇および上官に向かって「忠節・礼儀・武勇・信義」を尽くせというハナシしか説かれていない。と、いうことは、部下及び軍属&非戦闘員に対する軍としての規律意識は薄かったといってよいであろう*2。型を問われないことについては、無礼講なんである。
前線にとって不幸なことに、司令部は始終「兵站」を楽観視した作戦に始終した。多くの戦果は点の占拠にしかならず補給路確保出来得る線または面にならなかったという事実は、司馬遼ならずとも多くの事物が示す通りである*3。前線への本部からの支給は常に絶対数が不足しているか、途絶えてるかである。のこる手段は「現地調達」。敵国で戦ってる敵国人と日本軍票で必要充分なお買い物がお互い行儀よく行われたと考えるのには、そうとう無理がある。雲の子散らす荒野で、見た目同じなモンゴロイド同士疑心暗疑と恐怖心を耐えつつ食うや食わずでゲリラ戦を攻防してくたくたになった軍が、物やひとがあふれる都市をやっとこさ占領した時、それまでのつもりつもった軍隊生活の「うっぷん」を存分にぶつけ解消できる対象を見つけた時、自分でない誰かが先陣をきって暴走しはじめた時、そんな時、釣られるようにして一人ひとりが全能感による自己開放をあじわったのではないだろうか。「赤信号みんなでわたれば怖くない」「えじゃないか」「おどるアホならおどらにゃ損損」の集団暴走=個としての責任解除がそれに輪をかける。
で、南京事件をはじめとしていろいろな事件が五月雨式に起こったからこそ、1941年に『戦陣訓』が出される。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という文言が、硫黄島や沖縄での非戦闘員を巻き込んだ戦禍を残す一因となったとして有名であるが、これが出された狙いは「満州事変」以来の現場暴走乱脈と膠着状態を、本土陸軍司令の基に回復奮起させるのが主目的であった。いわば『葉隠』と同じ。
しかし具体的な悪行を書く訳にもいかず、その序文は「戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象に促はれて大本を逸し、時に其の行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。」、また第一戦陣の戒には「敵及住民を軽侮するを止めよ。」ともある。
大体、戦争の始まりの盧溝橋事件そのものが、正式な本土司令の基におこなわれたのではなく現場の暴走という体たらくなんである。しかし「お国の御為によかれとおもって」という枕詞さえつけば、大抵の暴走当事者の主体的判断ミスは責任解除され言い訳が成立したのである*4。それが軍の統帥権というものであった。

*1:葉隠』そのものが世間=佐賀県外に知れ渡るのは、明治後期になってから。

*2:上官による新兵いじめの過酷さは、歴史修正派も含めて数多くの証言のある話である。

*3:「日本内地より一厘も金を出させないという方針の下に戦争せざるべからず。対露作戦の為には数師団にて十分なり。全支那を根拠として遺憾なくこれを利用せば二十年でも三十年でも戦争を継続することを得」石原莞爾

*4:二百三高地でおなじみの乃木将軍が偉大な軍賢人としてもてはやされたのも、大無能な指揮官としての結果でなく頑強な姿勢を滅私奉公というスタイルで一族をしたがえた家長としてつらぬき通したからにすぎない。でも乃木は苦悩していたんだというその表にあらわされなかった家長の苦悩をあれこれ勝手に慮り共感することから、新しい情緒ドラマが面々と続く。

過去はいつでも現在によって創作される

これまでレイシズム分析者があまりに長い間中心的に行ってきた、「教養」や「イデオロギー」によるアプローチにこの現象を還元してしまうことに警鐘をならすミシェル・ヴィヴィオルカは、現在はその差異が解消するどころかレイシズムもまた多様化しグローバル化しているとして以下のように問う。

偏見の生まれる社会的文脈を考慮せずに偏見を分析することも、あるいはそこに一定の合理性を見出して支配関係のなかに偏見を位置づけることもある程度可能なのは、レイシズム現象が意味を表すと同時に、意味の喪失も表しているからではないだろうか。

ミシェル・ヴィヴィオルカ
レイシズムの変貌―グローバル化がまねいた社会の人種化、文化の断片化

共同体と個人

個人としての意見をいおうとすると、「(外)敵の有利になるような身内批判をするな」とか、はたまた「共感できる・できない」とか「傷ついた」とかになるのは何故かというのが、もうずっと前からワタクシの素朴な疑問としてあった。個人が個人として立脚していない環境で「一致団結」や「連帯」というふるまいばかり求められる(目的がそれ)のでは、それはその元になる思想がなんであれ、全体主義への道なんだわ。
いやまぁ、意見の多様性からいってそゆ意見もあってしかりではあるが、殆どそゆ意見ばかりとなると、正直頭をかかえる。そのココロは平たくいえばいずれも「自分(達)の絶対無謬性を否定するな」ということだからである。不利であろうが自分の意図があろうがなかろうが、あるひとつの現象に対してだされた文言について、その(公的)ポジションをはずして妥当かどうかを検討しようという気がさらさらない。なんについても帰結がいつも決まっている者の思考に、<個>ははたしてあるのであろうか?いや実は、方便としての個人というフィクションを作り出して、都合により使い分けしているのでは?ではその時、帰属を意識するポジション=共同体とはなんなのであろうか?
共同体とは個々が共有する共同幻想。その1つか2つの共同幻想に皆が収斂されてしまう時には光り輝いていた個別主張も、多様化する現状の中では埋没してしまう<個>ならば、個人にとって主張する意味がなくなる。自分という主体を強く意識するものの、ではそれをもってして社会にどう対峙していいのか分らない。「自己決定の個人主義的自由追求」という全能感的欲求は拡大すれど、昨今の多様化世界ではすぐ相対化され陳腐化して実績は続かず万能感に引き籠りつづけること自体難しい。そうなるとあとは本来誰しもが持てたはず(実はそれこそが幻想なのであるが)の実績等を社会に求めて「公共平等化」に片足をおく。なんでそれが両足でないかといえば、「したいことをしたい、やりたくないことはしたくない」という本音は死守しているからである。それがやみくもな責任回避にもなる。前回カキコしたとおり、社会的承認と責任とは一定の相関関係にあるのだが、なにしろ「やりたくないことはしたくない」めんどーな責任回避第一だから、社会的承認をゲットできない。
さて本音「自己決定の個人主義的自由追求」だが等分責任はとりたくないで、建前「公共平等化」というポジションをとった者は、引用した木村敏の文言通り共同体が唯一のアクチュアルになり、そこから導きだされた「今一番アクチュアルな<個>」のふるまいを型どおりに模倣勉強する=大いなる主体に沿うことで自己主体(責任)はずしということしか身の振りかた=失敗・負けないやり方が残されていない(と思い込んでいる)。
したから、内輪的にアクチュアルでない<個>のふるまいを「(外)敵の有利になるような身内批判をするな」と「諌め」たり、崇高なる内輪理念をもって「The Facts」なる英文を出したり、誹謗中傷を繰り返したりして「敵=世界にものもうす」ふるまいを属する共同体にむかって誇示してはばかることはひとつもない。いや、共同体に<個>という自己存在を誇示する為にも、悪しき敵は必須なのである。それに共感できない者は、空気よめない「慮り」がない者となるのである。


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