教養主義とキャラ萌え

歴史編纂の仕方は大まかに分けると、1.地域的為政者同士の政治経済事件中心、2.為政者または重要事件当事者とその周囲群像、3.社会文化中心、4.最新理論による構造実証、になるのだとおもう。1は学校教科書のような通史もの、比較経済学派・マルクス主義歴史学。2は歴史物語でお馴染み、人に歴史あり像。3はアナール派のような民族学・人類学や、構造主義社会学史学的論見地からの事象。4は他学問で発達した最新方法論を使って事象構造を多角的に相対比較・実証するもの。コンビニ前ウンコ座りなスタンス(既に立ってもいない)のワタクシは、3&4をネタのタネに1&2を窺うカタチをとって、「ひっかかり」主題をあだこだしている*1
1の大政治=国取り物語と2のナニワ節だよ人生わ(実は、、こんなスゴイ人だった)は、世にゴマンと流通してるのでとっつきいいのであるが、さりとてそのストーリィが仲良くお手手繋いで1=2とならないことがままある。が、まあ、それはそれ・これはこれなスリッパ弁証法に依って、主食とデザート的に別腹共存されている場合が多い。
でー、歴史床屋談義すると、大抵1と2がごっちゃになった歴史人物感での話しを聞かされる場合が多い*2。中身は史文学感想談義なんである。そんな中で3的話題を出すとオタク扱い、4は空気読めないエイリアン扱いか。。。
んな床屋談義が決裂するのは、大抵人物かそのネタ元の史家の好き嫌いという「人物主義」がベースに潜んでいるのが常。スリッパ弁証法にとって「人物」を範疇にすることはまことに都合がよい。一生涯極悪人というのも1点の汚点もない生涯っていうのも、人として現実バナレしてるからね。しかもその生涯全てが記録されてるなんてことはない為、自己の思いいれる部分が大量に発生する。無論その生涯行動が矛盾してればしてる程に人物像が膨らむ膨らむ。かくして個人個人で人物像を想像=創造して理屈つける大河文学。でもそうやって自分で見方を選択してるプロセスには、無意識過剰ですらある。

日本の社会は決して西洋のように主義を唱道したり、支那のように節義を固持する処じゃない。善悪を問わず少しでも際立った人格をみせたなら最速失敗してしまう。

永井荷風『冷笑』

てゆーか、ネット論争も発端は様々あれど最後は「バカ」いいあいな人格批判合戦が多いしな。ってことは、とりあえず「自己主張」はしてはみたものの、いまだに理屈(モダン)と人格(本質主義)は至る処で分裂してるキャラ萌えアイデンティティ政治っていうぬるま湯的現状からぬけだせない。なんにせよ、教養+キャラ萌えで、2度美味しい歴史ネタなのである。

*1:てなわけで、「歴史時代区分の範疇で歴史噺したい向きには大不評」なパターンは、なにもそれは歴史お題にかぎったことではないのだ。あははは。

*2:1と2の接着剤に「思想」が使われる場合が多い→思想政治感からの人物像

有為必然な伝統創造

西洋vs東洋の次に自由主義vs共産・社会主義という国際社会の2項対立で世界を把握するのがグランド・セオリーとなっていた80年代に登場したベネディクト・アンダーソン想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 』は、「国民とはイメージとして心に描かれた想像*1の政治共同体である。」とし、その把握前提の基となる国民・国家思想が成立した「近代性」そのものにざっくりメスをいれてくれた本。それと3の編纂手法によって、大国・大政治&為政者達に相対してた数多の事象が掘り起こされ地域の相互作用が解明されてくるにつれて、一方通行だった大国間な歴史が立体化してくる。
と、いうわけで、国家総動員法での「総力戦」時代のハナシとしても、「特殊性」とか「狭義の…」的な全体整合性がない分離分断論説は、一見論を細密にしてるようで、どう細密化してもそれは部分でしか立脚しない局地では、全体論からは別もの=ファンタジーにしかならない。しかしその(論者に都合よく加工した)局地をもってして全体に還元したかのような論調をもって、「論破」したような雰囲気=空気を作ることにやたらせいを出す御仁が結構いる。「主張内容」よりも「オレ主張」=「立ち位置戦」ってやつ。いやもう前に旧日本軍の意思決定でもカキコした通り、人物人格主義=人的融和性を最優先した感情論は「ダメな議論」の典型なのだ。
「する(営為)より成る(自然)」という風に無為自然=無自覚を貴ぶ日本風土であるが、「創られた伝統=近代性」というお題はここ日本ではどうだったのか?という視点で、改めて所与のものとされていた制度・文化を検証・解題し直す(「脱構築」)と、「大国家政治思想」歴史で隠れていた数多が、出てくる、出てくる。日本人なら持ってる「武士道精神」なら、なんで丸暗記して復唱しまくんないといかんのだ?なんでビレッジバンガードのPOPに「これ1冊読めばよい」と三島『葉隠入門』を推奨されなきゃなんないんだ?いや、もー、「偶然ではありません。これすべて必然なのです。」(笑)
それでは3によってエスニシティの掘り起こしに成功したとして、それを全体に還元するにはどういう手があるのか?ということで、4の実証が有効技として出てくるのである。

*1:「国民」の古代性・閉鎖性・共同性

偏見と憎悪

20世紀は人々の地域移動が絶え間なかったことで、それまで各地で固定維持されてきた文化がクロスオーバーし衝突する危険が増したとするニーアル・ファーガソンは、戦前の日独帝国主義の理想と現実を以下のように纏める。

ヒトラーの帝国は本質的に、「東方総合計画」で描いたような人種的に階層化された理想郷になりきれなかった。征服した諸国民の汎ヨーロッパ主義や反ソ連主義に訴えようとすればするほど、ナチスは血なまぐさい大量殺戮を協力者に頼るようになったし、途方もないアーリア人の楽園を求めて総力戦をすればするほど、人種の混合は進んだ。この現象は、ナチス帝国主義だけに見られた特色ではない。同盟国のドイツと表面的には異なるものの、アジアにおける大日本帝国も、ドイツとまったく同じ矛盾した傾向を示していた。日独の帝国の建造者たちは、生存圏を拡大し、人種的な純度を保ち続ける生粋の入植者を移住させれば、彼らは容易に進出できて繁栄するだろうと考えた。双方とも、自分たちの帝国よりはるかに弱いはずの、既存の帝国に対する地元民の幻惑感につけ込むことができると考えた。だが、日独ともに、協力者や奴隷動労者が欠かせなかったために、人種的に序列のある帝国をつくるという当初のヴィジョンが妨げられた。ナチスの「広域経済圏」のように、日本の「大東亜共栄圏」は人種差別主義に基づいたユートピアを建設しようとしてはじまったのだが、虐殺場、入植地、売春宿を掛け合わせた代物に成り果てた。

ニーアル・ファーガソン憎悪の世紀 下巻―なぜ20世紀は世界的殺戮の場となったのか

20世紀前半はユーラシア大陸の両端を戦場とした西洋vs東洋だったが、第二次世界大戦後半は「民族浄化」で少数民族が激減した為に社会が均質化し、同時に紛争多発地域が「溶接して密閉」(鉄のカーテンなど)され冷たい平和が、しかし大国間経済戦争を表とするその裏では果てしない戦争が「第三世界」の拠点を変えて繰り返されているとする。その始終一貫した残虐性については、「文明国の指導者が自国の国民の、他人を殺したいという最も原始的な本能に訴えかけることに成功した点」と締める。えっ、そんな単純なともおもうが、「総力戦」に持っていくには、確かにそういうわかりやすいハナシでないと大衆動員でき得ないであろう。
アムネスティ・レポートを読んでいると各地の紛争は、どうやら偏見と憎悪の可視化増幅が発端となっているようだ。

国粋化と国際化の共謀動乱=文化戦争

多文化主義がすべての現代社会に突き付けている基本問題は1つだけ、すなわち近代性(モダニティ)の問題である。差異と同一性、平等と正義、相対主義と普遍主義、合理主義と主観性、市民性、論理、法、これらのものは、われわれになじみ深いものだ。近代的投企(プロジェクト)の分離(カテゴリー)そのものが、全般的に見直されようとしている。社会的政治的挑戦、論理的哲学的挑戦を超えて、われわれに多文化主義が突き付けるのは、まさに文明の挑戦なのである。

アンドレ・センプリーニ『多文化主義とは何か

そおいえば、そもそも「グローバリゼイション」なんてえのは、歴史パターンでみれば昨今に限ったことじゃない。近々では、19世紀末がまさにそうだし、戦国時代とか大化の改新前だってその当時のグローバリズムの風がふきまくってるんじゃあないかな。
ドミニク・ストリナチ『ポピュラー文化論を学ぶ人のために』に依るとホストモダンは、文化と社会の区別の消滅、実態と内容を犠牲にしてスタイルを強調、高級文化(芸術)と大衆文化の消滅、時間と空間の混同、「メタ物語」の衰退であるらしい。グローバリゼイションと多文化主義(マルチカルチュラリズム)は表裏一体なんだし、こうしたポモを通過した後ならば、「マルチカルチュラリズムとしてのナショナリティ」こうしたお題は十分に成り立つ。「美しい国」を標榜した安部普三&保守派が、それ同時に目標とした日本の国連常任理事国入りなんか、まさにそのラインであろう。そゆ意味で、伝統回帰ではなく今日的最先端なのではないだろうか。>日本化を纏う日本 id:hizzz:20050505、Beautiful Japan id:hizzz:20070126#p1 (言っとくが、なんであれ「新しい」もしくは「温故知新」だからといって、それが常に後世にとって「善きもの」となるとは限らない。そこんトコ、よろしく。)でも、その最先端の鼻は、へし折られた現状なんだけど。。。
ナショナルな枠組みがブランド「所有感覚」のようにアイデンティティ共有され認識消費され他文化と強調競合されるとき、より「日本的」ステレオタイプな価値・美意識に固有性が付着した記号となる。こうした現象を踏まえながら岩渕功一は、グローバリズムと表裏一体になっているナショナリズムの役割を明らかにする。実はこうした構造を利用することで、西洋オリエンタリズムによって規定されつつ自らをセルフオリエンタル化して、日本VS西洋の二項対立という一元化された文化的想像体構造で、日本人・日本文化を本質主義的に"想像=創造"してきた。

排他的なナショナルな求心力が強まっている動向に目を向けずに、日本におけるナショナルな心情を歴史的・地政学的な文脈のなかで相対化して内側の視点から理解しようとする議論は、社会で周縁化される人たちの「リアリティ」とは遮断されたものとなり、結局は、排他的な国民の再統合と再想像の力学図らずも与してしまうことになる危険があるだろう。これまでのナショナリズムやナショナルな愛着に批判的な議論が、多くの人々がそうした心情を持っているという真実性を真摯に理解してこようとはしなかったことは否定できない。しかし、それを乗り越えるべく、ナショナリズム批判の議論から、"置き去りにされた他(数)者"の心情を理解する試みが、まさにそうした心情によって社会で周縁化されている"なおざりにされた他者"への視座に目隠しをするような作用を及ぼしてしまうなら、事の本質が見失われてしまう。社会の多文化状況が深まるなかで、同じ社会空間に住まう多くの人々がいまだに二流市民の扱いを受けているにもかかわらず、日本をどのようにしてより包括的な社会にしていくのかという議論が国の在り方についての議論からますます後退している現状に加担してしまうからである。

岩渕功一『文化の対話力―ソフト・パワーとブランド・ナショナリズムを越えて

普遍(モダン)=近代性への抵抗としての「所有と実存」というナショナリズム原理主義に支えられたまま、フラットな「多様性/多文化」という現代への抵抗=文化戦争に突入して、自己決定の個人主義的自由追求か人体的自然管理として公共平等化追求かの論理展開の中で、そのどちらにも分けられない情緒的結合体の内面的緊張が現われてくるのは、なにも歴史修正主義者=右翼・民族派に限ったハナシではないのである。
地方30代フリーターの悲哀を綴った赤木智弘が、同様の悲哀を共有する筈の左翼で激しいバッシングを受けたのは、最近のことである。「護憲と反戦」が第一のノンセクト市民派&左翼にとっては「希望は戦争」は許しがたいということなんであろうが、それへの怒りや反論展開すればする程に、地方30代フリーターをさらに「なおざりにされた他者」として分断してしまい、第三者には結果的に赤木左翼批判説(なにもしてくれない左翼運動)を居丈高なパフォーマティブで自己証明してしまうこととなる。
id:hizzz:20040716#p2でカキコした通り、大抵の人権思想は国家権力のバックがあって始めて成立つ。ナショナリズム(とセットの反ナショナリズム)がもつこのような性格に対してスラヴォイ・シジェク『人権と国家―世界の本質をめぐる考祭』は、国家=抑圧、ナショナリズム=危険というステレオタイプから1歩踏み込んで、グローバル化問題や不安の「最低限の保護」としての国民国家の役割を考察している。
反グローバル運動や文化政治パフォーマンスにすれば、ひどく後退した地味なハナシかもしれないが、人が人として多様な個を生きる為にクリアすべき現実運動とはこうした地味なハナシ、プロトコルとしての制度合意の積み重ね=契約≒連帯なのではないか。