帝国のコスモポリタン、フー・マンチュー

ロバート・G・リー『オリエンタルズ―大衆文化のなかのアジア系アメリカ人』
去年の夏に1回引用したが、引用文がジェンダージャーゴンに満ちていた内容だったので、かなりアレ的にとられてしまったかもしれない。兎も角、断片すぎて本自体の面白さにはまったく言及してないので、改めて再登場。

フー・マンチューは最初に大衆に認知されたオリエンタルであり、極悪非道の原型となった」*1という著者は、差別の根源は、肌の色や文化といった人種そのものではなく、社会共同体のコンセンサスが大きく作用しているとして、アジア系アメリカ人への差別・人種イデオロギーが大衆の中でいかにして醸成していったのか、移民がはじまった19世紀から昨今のロス暴動に至るまでを、俗謡や雑誌・小説や映画といった大衆娯楽に表出されてきた事柄を追った内容である。
以前書いた通り、法的にも経済的にも「自由」労働者としてアメリカへ渡航した中国人たちは、到着するや否や無産階級労働な「苦力労働」と名づけられ、「黒んぼ仕事」と同様の最下層・最低限賃金労働エリアにおいやられる。このよう最低賃金重労働は、解放民(元黒人奴隷)・中国人のほかには、「ホワイト・トラッシュ」と呼ばれたアイルランド系移民などの白人労働者が担った。そしてそんな白人労働者は「白い黒んぼ」もしくは「白人奴隷」とも称される。このような「奴隷」語彙の拡大転用が、のちの「性奴隷」名称にもつながっていく。
この本の一番面白いところは、白人中産階級の社会的規範に鑑みて、第1の性である白人男性、第2の性である白人女性、そして中国系移民を「第3の性」に位置づけたことである。

当時の異性愛主義の男性・女性からなる秩序に対し、オリエンタルのセクュアリティは、曖昧で謎めいていて両性具有的なものとして捉えられた。つまり、オリエンタルは(男性も女性も)「第三の性」として構築されたのだった。
1870年代までには西部に向かう女性の数が増えたため、西部の男性中心のホモソーシャルな文化はヴィクトリア朝の家庭性崇拝に取って代わられ始めた。
家庭崇拝は、性的抑圧のイデオロギーとしては部分的に成功しただけだったが、ブルジョア的家族を純潔と敬虔の私的領域として作り上げることには成功した。だが、その一方では、性的欲望の行為が公的領域におけるさまざまな形の売春業として繁栄することとなった。

西部開拓地が無秩序・無法地帯となりつつあることに危機感を抱いた清教徒は、「大覚醒運動“Awakening”」という宗教復興運動を起こし福音主義を説いた。その中で、男女の「正しい領域“proper sphere”」が論じられて、家庭こそが女性領域とされれ、信仰心をもって従順で献身的な女性を「真の女性“True Womanhood”」として崇めた。
そんな中、19世紀後半に1万人以上の中国人女性が、売春婦としてほぼ強制的にアメリカに連れてこられた。>id:hizzz:20070718
だが、19世紀の大衆娯楽の中にその中国人女性の痕跡がほとんどみつからない。そのことを著者は、中国人売春婦を通した白人と中国人の欲望の交換によって、「禁断の、口に出せない、男同士のホモソーシャルな社会紐帯が作られた」とする。
著者はサイード『オリエンタル』を基にして、ジェンダー構造になぞらえてる。その「オリエンタル」は女性らしく沈黙を守る存在として構築され、女性客体として表象される。それを帝国のコスモポリタンを表象しているとする先に記した「フー・マンチュー」を使って考察する。

尋常でないフー・マンチューの力は、彼の曖昧な力からきている。曖昧なセクュアリティは、女性的なマゾヒスティックな積極性を併せ持っている。20世紀のアメリカの大衆文化の語りにおける、サドマゾヒスティックなアジア人男性の提携である。彼の性的な魅力(そして彼の人気)は、この共存する異性愛と同性愛から生じている
フー・マンチューは、白人文明を征服するという彼自身の欲望を制御できない。オリエンタリストによる言語の流用と支配において鍵となるのは、オリエンタルに対して、男性の属性とみなされるような合理性、健全さ、成熟について、そのすべてを否定することである。女性のセクシュアリティとしてのオリエンタルを表象することは、知的で社会的で歴史的な西洋と、非合理で自制がきかない未成熟な東洋とを差別化するための戦略となってきた。

うう〜ん、そうすると、ピーター・セラーズクリストファー・リーのどっちがハマるのかなぁ。。。「真面目につくられたB級のものにこそ大衆的な欲望が集約されてる」とは斉藤環がいってたが、まぁ、このように著者は、いっていっていいまくる。
このような軽妙な語り口で、次々と政治・文化・社会・経済に幾重にもクロスした人種差別を捌く、痛快丸かじりな軽口で重圧な内容なのである。

米国における移民政策の動向
http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/gyosei/082/INDEX.HTM

*1:ワタクシ的には「怪人フー・マンチュー」といったら、クリストファー・リーなんだけど

孤独な帝国

明治政府のような文化啓蒙による朝鮮開国近代化に肩入れしてた福沢諭吉は、近代化に伴う中国・朝鮮・日本の緊張関係を以下のように例えた。

三国の交際に於て、朝鮮国を一個の少婦人に比喩して、日本と支那と二男子が其歓心を得んことを力めて、日本は早く既に情を通じたれども、今更往時を回顧すれば唯一旦の熱に乗じたる挙動にして、結局我が得策に非ず、彼れも一時の夢なり、此れも一時の夢なり、醒めて徐々に身の覚悟こそ大切なれとて、全く断念悟道して満腔洗ふが如くならんとせん。是に於て一方の支那男子は毫も自省の念なく、得々其欲を逞ふして飽くを知らず、臨機応変、只管其新に得たる歓情を固くせんが為に、時として故さらに日本人を侮辱することも多からん。

福沢諭吉「東洋の政略果たして如何せん」1882年

長年の冊封体制という清の属国からの朝鮮独立党革命の甲申事変1884年の失敗に、諭吉は非常に落胆し、「脱亜論」を『時事新報』紙上に発表したのは1885年である。小中華であろうとした李氏朝鮮から、日本主導型の欧米化をめざした開化派への援助=親日ルートが瓦解したことが、1910年韓国併合という直接介入に傾く理由となっていく。
第一次大戦で5大国入りしたと思っており親米的であった日本人に、日系移民を「帰化不能外国人“aliens ineligible to citizenship”」と断定した、1924年米国排日移民法は、「衝撃」として伝わる。特に新渡戸稲造などの新米派たちが被った影響は大きかった。これ以後、欧化主義の反動と共に反米感情がメディアを覆うようになる。
また、軍事勢力拡大する日本そのものに、欧米では「黄禍論」がさかんにもちだされるようになった。このような欧米との亀裂をなんとかしようと、古き良きジャポニズムを全面に掲げた「美しき日本(Beautiful Japan)」キャンペーンは、1930年に行われた。>id:hizzz:20070126#p1
ドイツ語圏に黄禍論に表れた「男性の危機」 川島隆
http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/report/2-pdf/4_bungaku1/4_10.pdf

良いジャップは、死んだジャップ

第二次世界大戦が産み落としたもの、それはユダヤ人虐殺と“人種差別”である」とジョン・W・ダワーはいう。
前回書いたとおり西洋に追いつけ追い越せ日本政府が和魂洋才に押し込めた「近代教育」政策、では当の西洋ではどう見られていたのか。

日本人は他の国民のような考え方をしないということが、事実上すべての注釈にとって必須条件であり、確かに欧米の感覚での「理性」とか「倫理」に支配されることはなかった。彼らは考えるというより「感ずる」とよく言われ、また頭脳だけでなく「全存在」で考えるとも言われた。彼らの精神は「前ギリシャ的、前合理的、前科学的」と評された。―これらのレッテルは女性の劣等生に関する話の中でも、よく使われたものだった。ときによってはこの同一視がはっきりと示された。「日本人の精神は、女性の精神がそうであると考えられているように、より初歩的な動き方をする―分析や論理的演繹に従うというより、本能、直観、懸念、感触、感情、連想によって動くのである」とオットー・トリシャスは書いた。
日本人が「直観」とか推論的でないコミュニケーションに重きを置くことを、欧米人が日本人の「理性のなさ」の根拠にするのは、ある集団の自己満足的なセルフ・イメージが、他者の否定的かつ軽蔑的なステレオタイプに転嫁する恰好の例である。この場合もう一歩踏み込んで、日本人の頭脳は劣っていると説くのは造作もないことだった。

ジョン・W・ダワー『容赦なき戦争―太平洋戦争における人種差別

また日本人は人種ぐるみで近眼と内耳の欠陥がある故、急行下爆撃はおろか飛行機操縦ひとつとっても満足に出来ないという人種偏見は欧米では蔓延していた。兵站は無論のこと、戦闘能力1つとってもあまりにも大いなる差がある日本が戦争をしかけてこれる筈がないと多くの欧米人は思っていた。その為、青天の霹靂である真珠湾奇襲は、日本人の優秀さを示すどころか、論理的にどー考えても勝算なき侵略に突っ込んでいった行為は、「根本的に理性がなく油断ならない日本人」という定見を決定づける証拠になってしまった。かくして「ちっぽけなイエロー・モンキー」は、不気味で不可解な巨人と化した。>id:hizzz:20050505#p2
当時アメリカの敵は「ナチス」「ジャップ」と呼ばれた。ドイツ人ではなく「ナチス」という限定に対して、全日本人を含む「ジャップ」*1。この言葉と共に、アメリカ国籍を持つアメリカ生まれの者を含めた日系人強制収容所に監禁。同様の処遇は、カナダ・メキシコ・ペルーに及ぶ。その収容所の中から志願した日系二世部隊が、偶然にも南ドイツ・ダッハウ強制所のユダヤ人解放にかかわることとなる。
日本人の海外移住は1885年日本とハワイ王国間の条約により砂糖耕地労働者の渡航に始まる。中南米へは、1893年榎本武揚らの「殖民協会」を通じて組織的に行われた。しかしこれは国策とはいえ、いずれも掛声だおれのあまりに杜撰すぎる「棄民」状態にほかならず、多くの移住者が辛酸をなめた。>id:hizzz:20060626
このような強度に陰湿な人権化と集団拘禁から受けた精神的外傷の結果、特に日系アメリカ人と日系カナダ人の2世3世たちにとっては、日本的なものからの絶縁と「祖国アメリカ」への文化的同化を強める傾向があったという。

*1:昨今は、“JAPAN”ならぬ“JAPAiN”なんだとか。。>http://www.economist.com/opinion/displaystory.cfm?story_id=10729998

アジア系アメリカ

現在、日本への「慰安婦謝罪要求決議」は、アメリカからカナダ、EU、さらにフィリピン下院で採決されている。この議案の世界的拡大に伴って、この決議案を促進したマイク・ホンダ米下院議員(民主党)のことはもう話題にはのぼらなくなっている。ホンダ・バッシング側はもとより、慰安婦問題を今日的課題とする側も、アメリカに於けるアジア系住民の歴史や意識には、かな〜りうといものがある。
幼少期日系人強制収容所で過ごしたホンダ議員にとっては、日系アメリカ人補償運動“Redress”と、この旧日本軍慰安婦問題とは、「国家犯罪」としてアメリカと日本の正義を問う切り離すことのできない人権問題だと度々主張している。1988年日系人強制収容所に対する補償を定めた「市民の自由法」が制定し、生存者全員に大統領の謝罪の手紙と共に補償金が送られた。他に議員は、南北戦争時に参加した中国人兵士への名誉市民権を与える決議案を提出している。
L・ヒラバヤシに依れば、日系人政治家は3タイプに分けられるという。自己コミュニティの日系人を活動手段とする者、1970年代以降のブラジルやハワイでの自己主張を掲げて日系人有権者に訴える一方で一般大衆へもアピールする者、コミュニティとのつながりをほとんどもたず必ずしもそのコミュニティの主義に同調している訳でないが、日系人以外から幅広い支持を得ている者である。60年代の公民権運動の高まりの中、日系移民達は西欧人の対意語でしかない「オリエンタル」という蔑称を打破すべく、カルフォルニアで「アジア系アメリカ人」という政治戦略的運動“Asian American Political Alliance”が誕生した。
最近のアメリカのアジア系移民の実情は、減りつつある日系とは対照的に中・韓・インド系が増大しているという。これらの「新移民」達は、祖国での嫌・反日感情のままに日本人と日系人の区別なく接触してしまう場合も多く、「アジア系アメリカ人」といっても、その内実はバラバラである。高所得者が多い成功したマイノリティである日系人が、プアーなベトナムカンボジア系などとどう連携していくのかといったひややかな見方もある。バージニア工科大銃乱射事件でみられるように、どの人種が犯人かによって、アジア系コミュニティがうおさおするケースがある。>id:hizzz:20070419

アジアでの戦争体験を携えた新移民たちが続々とアメリカへ流入してきたことで<アジア問題のアメリカ化>が進んでいることは確かだ。そのために、アジア系の抗議運動も誰の差別に誰が抗議するか、様相はさらに複雑化しつつある。
収容所体験を持つ日系人も、日系二世の元兵士も、韓国独立運動の闘士の子孫も、旧日本軍に親を惨殺された中国系やフィリピン系も、あるいはかって鬼畜米英を叫びながら竹槍を手にした戦争花嫁も、今はアメリカに住む広島と長崎の被爆者も、かっての戦争体験を語り継ぐべき「アジア系アメリカ人」の一員としてある。アメリカのマルチ・エスニック社会とは、かように多様な声が立体交差する社会のことでもあるのだ。

村上由美子アジア系アメリカ人―アメリカの新しい顔

これまで日系人が他のアジア系と政治的共同歩調をとることは、皆無に近かったのであるが、「慰安婦謝罪要求決議」はこうしたアジア系市民が政治的に纏まる契機になっている。911は、かっての「リメンバー・パールハーバー」に結び付けられ、テロ叩き=ムスリム系バッシングは、多くの日系人の過去の悪夢を呼び覚ました。そこで日系とムスリムとの「強制収容所を繰り返すな」という連携も、生まれている。

「マイノリティと戦争の遺産 強制収容所先住民族、原爆」マイケル・S・ヤスタケ
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai96/tz9607.htm

モデル・マイノリティの内実

「われわれ日本人」とか「われわれの日本語」といった日本の自己同一性をめぐる主張がいかに特異なものであるかを本居宣長研究を通して解題してきた子安宣邦は、西洋・東洋という意識を以下のようにいう。

西洋の文明史的な立ち上げはかならず非文明的・反文明的東洋の記述をともなうものである。東洋とは19世紀ヨーロッパの文明史的自己認識にかならずともなわれる反対像であった。ギゾーにとって西洋の反対象・非文明の東洋とはまずインドであった。ヘーゲルにとってもまたマルクスにとっても先進西洋の反対像はインドであり、やがて中国であった。西洋の経済的・政治的・軍事的な膨張する視圏に登場し、包括されていったのはまずインドであり、やがて中国であったということである。福沢諭吉にとって反文明的なアジアとは専制の王国としての中国であり、わが専制的な古代日本であり、またその専制的支配の遺習である。これはヨーロッパ文明史を範型とした福沢の文明史的言説がもたざるをえない構造的な特質である。

子安宣邦「アジア」はどう語られてきたか―近代日本のオリエンタリズム

京都学派の「世界史の哲学」もしくは「世界史的立場」*1がついに日本の帝国主義的侵略を糊塗する哲学的な粉飾の言説にしかならなかったのは、非西洋の日本という地政学的な要請に応えることに急な哲学者たちが遂に自己の哲学的言説を対抗の言説としてしか構成しなかったからであるとする。<主体の不在
例えば、「日本」という地場から引きはがされた日本人という立場=第二次世界大戦時の日系移民が日系人であるというエスニック・アイデンティティと、アメリカ人であるというナショナル・アイデンティティを、日系アメリカ人のなかでどう捉えていくのか、そこで京都学派的「世界史的立場」なるものが立脚するかを考えると、それは一層明確になる。「日本文化論」そのものがイデオロギー的虚妄であるとするハルミ・ベフは、日系移民研究をとおして『日系人とグローバリゼーション―北米、南米、日本』、19世紀後半に西洋植民地が日本に政治的・文化的に侵入してくる複雑なプロセスとそれに抵抗した明治日本というグローバリズム現象が、必然的に「中心」と「辺境」としてグローバリズム経済の一部として取り込まれていったことが、日本が「搾取される国」と「搾取する国」という両面をそなえるようになった歴史的経過を意味するという。また現在、南北アメリカの多くの日系人は、日本人ではなく「日系人」として自己規定し、交流していると観察する。そして、アジア系「多文化主義」が結局1文化主義の寄せ集めと化しがちな反省から、「相互文化の感受性“Intercultural sensitivity”」が提唱されている。

*1:藤田親昌編『世界史的立場と日本』昭和十八年、第一回座談会「世界史的立場と日本」http://www.orcaland.gr.jp/~maro/haniya/sekaisi~1.html