批評のパラドックス

現代思想の十八番のように「ポスト構造主義」はやりとりされているが、このアイデアは元々建築デザインを土壌にしたもので哲学の発想ではないということが、しばしば忘れ去られてる。そもそも芸術は、たとえ「反芸術」「非芸術」な「コンセプチュアル」であろうとも、作品というマテリアルに具象結実してみせて初めて成立するという唯物論に立つんだけど。>『リアルのゆくえ』騒動

批評の様式化

批評は、事象を二分して批評する/されるの、主体/客体の決定から始まる。
かって表現における権威は、権力存在によって保護された。為政者権力のパトロンという支配/保護が薄れてきたモダンの平地で、自律しかつ表現権力として表面張力を保つには、批評性というある種の毒を芸術作品の内部として持ち合わせていることが必須であった。ブルジョアジーの欲望に添いながらも、最後の一線ではその欲望に痛烈な一撃を喰らわせる創造。その裏切りのような作為が有効であればある程に、作品成立過程や所有者や世相や時代からの作品の自律が果たせる、つまりそれらとの権力闘争に創造は勝利するわけなのである。モダン以来、最も良質な芸術作品とは、このような狡猾ともいえる重層構造を持つものである。それが故に時代を切り開くことも可能となる。
問題はそこからである。そうやって切り開いた後のハナシである。その批評性がものごとの中心にどっぷりと鎮座してしまう、様式化ということである。批評はその批評的機能をもって、批評自身に対する批評を排除する。また批評はその力によって、創作作為そのものも時には排除してきた。曰く「神は死んだ」に始まる数々の死亡宣告である。それこそが批評の権力であり、同時に致命的欠陥である。
批評は有効賞味期限が切れてその批評の土台となった批評されるものが風化しても、批評するものを過剰に保護してしまうのである。しばしば、時代に添うもの=屈伏したものというラベリングから逃れる為の防御と立ち位置保持の為だけに、その批評権力が行使される。それは批評性=文芸の本望ではない。むろん創作芸術の本望でもない。
創作の世界は、つねに既成創作に対する健全な批評を契機に、新しい創作と批評を生み出してきた。が、その批評性がパターン化して様式美としてひとつのジャンル化されると、それは家元制度的再生産システムとなる。そのシステムは、批評が権威を保護し永続させるという、権威と批評の逆転である。広大な芸能・芸術を支配する為政者権力が消失した20世紀以降の世界は、この批評性がその賞味期限を過ぎて生き残り、世界を二分し続けているのである。創作という地場を持たない批評家にとってこのシステム構築は、自己と自己批評世界を担保し永続させる強力な欲望構築であるが、その様式伽藍の内部では創作は生まれない。最初に書いたとおり、自律する作品内部でセットされる批評性とは、外部的まなざしであるからだ。また一方で批評性とは、斜に構えて、時代から自己防衛するポーズでもあったのだが、もはや斜に構えているようなブルジョアジーな余裕は、社会にはとうにない。外部を消失した批評家は、批評対象の創作に走るという自作自演を行ってまでも、批評権威を永続させる自家中毒に至る。

形式と自由の動的循環

20世紀モダンの金字塔バウハウスからブランニューが育たなかったのは、ナチ台頭という時代変遷のせいばかりではない。モダンの名の基にユニバース化されようとしてる世界をデザインする為の教育制度という権威・形式主義が、ぶっちゃけモダンより旧式だった。バウハウス以後もそのような旧制度に芸術育成が依存したことに、欧州文化の限界があった。モダン芸術はアフリカ美学を「発見」したピカソのように、新たな創作のインスピレーションは、欧州文化の内部でなく外部で見出されるようになってきた。そのような芸術家の営為と、学問としての美術各分野を規定して教育することとの分裂は、なにも文化の違う極東日本ばかりな問題id:hizzz:20080731ではなく、「美術」ジャンルを規定した本家欧州アカデミズムでも起こったのである。沢山生まれた芸術運動&共同体が、全て1代かぎりで消滅していったのも、その分裂要因が解消されぬままに分散していったせいである。
神とか絶対支配者が無くなってしまえばそれを頂点とする厳格なヒエラルキーといった形式が成り立つ訳がない、王様・家臣は軒並み裸となったのである。革命ってそゆものだし。価値多様な世界が開けていく程に見えてくるその亀裂を埋める都合の良い方法論を探した時に浮上してきたのが、現象学的アプローチであった。そしてアカデミズムはそれに飛びついて、延命した。
概念上でしか存在できなくなってきた形式主義を、自由形式として現象学的なものを至る所で埋め込ませることによって、二項対立を抑えて形式権威の存続を図ってきた。それは、まず二項対立を設定し、それを新たなシステム(テクノロジー)がそれを克服するという弁証法、それがポスト構造主義が描こうとした根幹シナリオなのではないだろうか。
形式/自由だけでなく二項対立は、資本支配/搾取、国家/個人、需要/供給などあらゆる分野にパラフレーズされた。「開かれた○○」「新しい○○」といった、「○○(形式)は絶えず在野の自由流動的なものを汲み取って、より良い○○(形式)へと刷新する」というどこぞの政党スローガンのようなものとか。サブカルの「ニューエイジ」「サードチルドレン」などといったものもこれに類するだろう。

要請された巨悪

二項対立を解消する筈のポスト構造主義運動の前提にあるものは、その二項、形式/自由の永遠の対立・分裂であり、自由の要請に対して形式を刷新する際の形式の抵抗という前提である。それ故に、刷新を持ちかける者としての批評家という自由存在は正当化された。それはもろ刃の剣だった。
そのシナリオの真の主題は、「克服する新たなシステム(テクノロジー)」についてである。しかし、企画しようとしたブランニューがなんらかの妨害があることで実現できないのなら、その妨害に対する対決姿勢さえ弁証法的に見せ続けさえいれば、それだけで主体は立つ=立ち位置保障で安泰。いうところの「新たなシステム(テクノロジー)」の内容については深くは問われない。このような批評解釈形式が流通すれば、実際のアイデア&刷新能力やその結果責任も負えない「知識・文化人」評論家が、単にシステムの弁証法的刷新を唱えるダケな観念的存在=言うだけ大臣が正当化されるのである。問題とする実情はなんの変化もなしに。むしろ刷新を阻む巨大な抵抗圧力、形式と自由の分裂を彼らは自説の為に必要とし、その状態をコントロールし続ける為に、前提創造に手出ししたのである。「<帝国>」が一番必要で切に望んでいたのは、それを批判アイデンティテファイする者だったのだ。
だが、その弁証法的立場も、その「妨害悪」が無い・消滅した時はじめて、ブランニューである必要性、自由の意味を具体的に問われる。だからなのか、最近では批評も又、自らを死亡宣告しているようなのだが。
現代は批評が権威をささえていたのである。第一線で活躍する芸術家達は、そんなことはとっくに気がついていて、最低限の「コラボレーション」的繋がりしか求めなくなっていったのに、にもかかわらず批評家はいまだに、産学生活丸ががえの「共同体」を夢想してやまない。最近の政局をめぐるメディア報道=つくられる世論のようにid:hizzz:20081129、昨今は賞味期限をすぎた批評性によって、権威は保護され固定化してるケースが多い。アカデミズムの中で閉じた弁証法として形式主義の弱点を補完する目的で、そのうわばみばかり解釈手段として転用徴用されている表現主義ポスト構造主義運動に、具体的なんの「新たなシステム(テクノロジー)」があるというのだろう。ただ既存価値をいたずらに融解することのみに機能を発揮してそれだけでは、後はそれこそ批評が二分するという隠された権力による全体主義な枠しか残らないことになってやしないのか。
ポスト構造主義が本来批判し刷新すべきシステムとは、このような批評パラドックスそれ自体ではないだろうか?

放棄された再構築

今年に入って「ネタのタネ」では、歴史ネタを随分扱ってきた。id:hizzz:20080213#p1で歴史の見方について1.地域的為政者同士の政治経済事件中心、2.為政者または重要事件当事者とその周囲群像、3.社会文化中心、4.最新理論による構造実証と、4タイプに分けてみたが、「ポスト構造主義」に該当するのは、3アナール派のような民族学・人類学や、構造主義社会学史学的論見地からの事象と4他学問で発達した最新方法論を使って事象構造を多角的に相対比較・実証するものである。当はてダでは主にこの3&4的切り口の許にモダニティについてあだこだ探っていた。しかし「ポスト構造主義」的見地をとれば、「南京事件あるかもしれないし、ないかもしれない」とは到底ならない。なぜなら、固定していた視覚の1面規範からでは隠れていた事象も、ひとつの物事を多角的に立ち位置を変えて立体的に見て再構築していけば、出現していることが明白になるからである。その為の構造把握である。旧日本軍公文書というような文書主義=固定していた視覚の1面規範だけではなく、さまざまな見地から検証して統合して、「南京事件はあった」と「ポスト構造主義」的にも再構築されてるのである。少なくとも建築・デザイン分野に於ける「ポスト構造主義」も、解釈ではなく、このような構築手法のことを指しているのである。
それが「あるかもしれないし、ないかもしれない」となるのは、固定していた視覚の1面規範をただ脱構築した=批評断片化しただけだからである。それは仕事の半分でしかない。冒頭に書いたように、「作品というマテリアルに具象結実してみせて初めて成立する」ということは、その脱構築したものを、“de-sign”再構築してみて初めてそれがなにものかであるのかが、判るのである。確かに再構築の仕方は数限りなくあるが、その結実作品の出来を逐一問われつづける立場でありつづけるのが、作者の責務である。そして、その脱構築&再構築の手段の妥当性を、常に問う役割を負っているのが批評ではないだろうか。


批評まわり
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・主体なきモダン id:hizzz:20080619#p4
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アイデンティティの袋小路 id:hizzz:20061005
歴史認識問題
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