しずかちゃん

id:sujaku:20050214さんトコでのお題、ゆなさん発言
「しずかちゃんは結婚後、 ジャイアンに進化する可能性だっておおいにあるとおもうの」
それは当然。
結論をいえば、しずかとジャイアンは同一人物の別の側面でしかない。「しずか」とは、「女は女に生まれない。女になるのである」ボーボワールがいったとおり、矯正教育された〈女〉=少女なるものだからだ。金井美恵子に拠ると「男は少女を夢みつづけることができるけれども、女は少女を過去の夢のなかでしか夢みられない。少女が一等少女らしいのは、男の夢か老女の夢のなかでだろう」という。
じゃ、女はどうやって生まれてきてるのかといえば、生物学的人間としてとしてだろうな。それは男も同じだ。そんでもって反ジュンフリ派が血眼になっていってるように、「〈女〉らしく」つー矯正が施されて、野蛮な動物から〈少女〉へと、格上げ神聖化される。前に高原英理の本をひいたとおりid:hizzz:20040524、〈少女〉はひとりでは成立たない。それをやるためにはインフラが必要なのである。そのインフラのひとつがジャイアンである。ジャイアンジャイアン然としてあるとき、しずか芸は最も輝きを増す。

ジャイアン

不思議ちゃんは、ジャイアン然としたジャイアン*1を持てない、インフラ(資産)のないしずかちゃんである。相手が単なるオレ様ダケでは、しずかちゃんが後出し権力を行使するのは不可能なのである。前にカキコid:hizzz:20031213したが、単なるオレ様=のび太スネ夫がいくらいてもダメである。んぢゃあ、ジャイアンとは何かといえば、強い父=家長=〈男〉そのものである。
現在はジャイアンはそうそういない。だから、しずかもいない。ジャイアン風をよそおったとしても、生涯ジャイアンを実践出来うる男性はそうはいない。したから、結婚後、しずかはしずか道を補完しようとすると自らがジャイアンとなるしかない。不幸?にしてジャイアンを求めながら得られないしずかは、不思議ちゃんとなって自ら木に登り、ハシゴをかけて救出してくれるジャイアンを待つ。だけど、そんな奇特なジャイアンは今どき滅多にいない*2ので、多く不思議ちゃんは自分で降りてこなければならない。

*1:目的と手段が明確な能動態

*2:ジャイアンは自己目的を達成するのに忙しいので、その目的をじゃまする不思議にかまけてる暇はない

〈女〉をヤル

まあ、そこまで極端でなくても、〈女〉というところでしか「勝負」出来ないとおもってる人は、若い女性の中では多い。そしてその勝負から脱落することを恐れて、日夜たゆまぬメンテをかかさないそのパワーは、いやぁすさまじい、という他はない。ターゲットたる〈男〉のメンタリティを潤す他に、現にこの不況の中で、その〈女〉メンテパワーでもって、確実に日本経済が回って潤っているのだもの。バカにしてはバチがあたるというものだ。もてないとかゆーとらんで、盗撮なんてケチなコトしないで、柏手をうって拝謁すべし(笑)。
でー、「〈女〉を上げる」ことに全精力を使っていた女性も、その必要が無くなれば、労多いしずか芸はヤメル。必要が無くなるとは、ジャイアンが手のうちにはいったか、自分がジャイアンを必要としなくなった時か、自分がジャイアンをヤルと決心した時だ。
しずかがいないからジャイアンができないのか、ジャイアンがいないからしずかがヤレないのか、、、ともかく共依存であるのは間違いない。だからこそ、反ジェンダーフリーバックラッシュ)は「〜らしさ」が縮小される自体に、目の色をかえるんだから。

妹の力

「日本人は、ヤンキーとファンシーで出来ている」とズバリいったのは、故ナンシー関
な〜んてコトいうと、底所得底学歴層のハナシかとおもわれる向きもあるやもしれぬ。しかし、それは甘い。
柳田國男の昔から、しずか&不思議タイブしか出てこない日本の近〜現代私小説、御姫様とお嬢様しか出てこないガンダム系アニメ、昨今の『戦闘美少女の精神分析』ゴスロリに到るまで、日本の「萌え」=セクックス・コンシャスは、ヤンキーとファンシーひとすぢ。
澁澤龍彦の、彼にしては珍しい日本文学が書かれている『思考の紋章学』の中に「姉の力」というエッセイがある。このエッセイは、まずバロックの詩人モーリス・セーブ「女体の賦」からはじまって、ボードレールフェリーニの「巨大な女」そして林達夫ときて、柳田の『妹の力』から連想することとして、鴎外『山椒太夫』の安寿の書かれ方に着目*1し、死を決意した姉の輝きを強調することで、この中世の黴びくさい物語は、大人の為のメルヘンとなりえたとする。さらに、日本&中国の観音とイシスの共通点をさぐる為に、あのキルヒャーが登場する始末。わ〜い、わ〜い。いやぁ、〈女〉の力って偉大だなぁ。わははは。
ハッキリいえば、ついぞ西欧的〈男〉〈女〉の対峙するエロスというものは、この地では擬態としてしか根づいてないんぢゃあないだろうか。なんたって主体というものの獲得に失敗しつづける快楽を謳歌しつづけてるからだ。

*1:漱石と違って生涯『鴎外―戦う家長』 ISBN:4101170029(ああっ、品切れだ!)をやり続けた鴎外ならではといえるかもしれない。安寿は、ジャイアンという日本近代をかかえた鴎外の同志なのだ。

母神

いや別に、だからといって女が大変な訳ぢゃない。太古的大地母神崇拝ってのが洋の東西南北を問わず、なんでアメニズムとして普遍的にあるかといえば、ダレの腹から生まれてきたんだ?って厳然たる事実があるからだろう。その分だけ、男性のブが悪かったってことなんで。それをなんとかしようとして、〈男〉なるものをブチあげて、それの維持管理が始終大変だったダケなんで。わははは。
先に上げた本で、澁澤は『断腸亭日乗』の黒丸システム*1をネタに、荷風の性意識をこのように記す。

とりわけ荷風のような、子供を生んだり家庭をつくったりすることを根っから欲せず、女を性の玩弄物としてしか見ようとしない男の場合、この喪失の意識、死の意識は、いよいよ鋭く研ぎすまされるはずであろう。なぜなら、女と人間的な関係をもつことができず、(『墨東奇譚』の男の例を見よ)、中村真一郎氏の評言にあるように、ひたすら「ガラスの城」に身を閉じ込めて、絶対に他人のなかへ入ろうとしない精神にとっては、性のメカニズムは、あたかも自己運動する機械のように単調な興奮と喪失の繰返しでしかありようがないからだ。機械はやがて油が切れ、老朽して動かなくなるであろう。永久運動の機械はあり得ないのである。いかに「閨中非凡の技巧を有する」女に出会ったとしても、である。

だから、意義がある性=しずか=理念を全精力をもって作り上げ、そこにセックス・コンシャスがあるとしとくんであるよ。
だから、そのシステムの殻を破って主体をもとうとする者の力を、そいでおかなくてはならない。「閨中非凡の技巧を有する」女は、膣に歯を持つ女として、しずか=〈少女〉とは、欲望そのもものが存在することを意識しない女にならない女(=性の快楽を知らない女)として、幾重にも抑圧しパワーをそいで手なづけ、システム=〈男〉社会の保全を図る。が、その手なづけるネタを維持しつづけるのが、ちょ〜大変。結果、口ほどにもナイと、その足元を見られてソデにされるのか〈男〉は(苦笑)。
リブから始まったフェミが90年代になんで終わってしまったかってのも、実はソコだと想う。個々の論説はどうであれ、総体としてフェミ女性が「女は大変」って言説を引受けてしまったから。だってそしたら、後は「女性問題」として、女性自身(=しずか)が解決すべきものって、多くの(男女問わず)フェミシンパが共感しちゃった*2。そのしずかぶりっこ(=インフラ・エリート)を見た若い者はそっぽを向いた*3。そして問題当事者にこの問題を突き返されたカタチなんじゃないだろうか。そして反ジェンフリに晒されて尚更、ファミニズムの枠をでられない。

*1:性交時の日に黒丸をつける

*2:昨今の運動シンパを支配する大多数の共感主義は、共感を表明することで行動を終了する。

*3:しずか=〈男〉を引受ける〈女〉(=良い子)なんてしんどいことヤんのなんかヤダと実践して、フェミ的課題は終了とした。