「傷つく」ひとびと

前回では、(政治的)運動に於ける死屍累々をカキコした。「運動」というかなり特殊な例であるので、それに関わっていないひとは、このうっとーしージミなハナシに「関係ない」のかといえば、そうでもない。
リアル日常で、なんだか人の目(評価)が気になり、その評価されるであろう自分と評価されたい自分の落差にとまどい、じわじわと敗北感に浸食されて無気力になっていることは、ないであろうか。いわゆる負け犬、ダメである。そして、それがどんどん続く。
過去にひどくいじめにあったとか虐待されたというトラウマ物語、なにかガツンとした明確な衝突/挫折体験がないまま、いつしかそうなっていったというひとは、実は結構いるのではないか。そうしたひとたちは、いまのこの自分のダメ感を現したいが、なによりも自分自身がトラウマとなっている故、抽象化する言葉をもたない。茫漠として辛い。けど、なんでそうなったのか原因はよくわからない。そうすると、現在も続く唯一の感覚、他者評価と自己評価の落差、そこにポイントをもってこざるを得ない。自分に共感しない者に逐一ひりひりと「傷つく」こと、「アタシが悪いのではなく、傷つけた他者が悪い」と解釈する。悪者という明確な具体的対象が出来ることで、やっと自己と自己をむしばむ現象を切り離す。そうして自己回復を図る。
さて、しかし、この方法論にはすごい矛盾がある。自己回復の為に他者が必要なのであるが、その者は自己をさらに傷つけることとなるのである。

よい子理想像

上記のようなダメ縮小再生産ループを抜ける方法として、拡大再生産方法がある。それが、強大な自己=理想のアタシという自分さがしである。
人の評価を気にするあまりに、その時々の強い立場(と自分が思った)ひとの意見に沿う「よい子」に一生懸命変身して地位を確保しようとする。よらば大樹の影。んが、自分が思ったような評価/立場を確保し続けるのは難しい。自分が思うよりも、他者は他者故に自分のことはどーでもいいからだ。必死に「(権力者好みの)よい子」してあげたというのに応じて(権力を分けて)くれないんだ、こんなのフェアぢゃない…。あとは「アタシが悪いのではなく、傷つけた他者が悪い」という方法論がむくむくと頭をもちあげ周囲ともぎくしゃくしてくるので、安定した対人関係を営むのに失敗する。さすがにそんなことの繰り返しでは、人生どーにもならない。なにか他の手はないものか。。。
他者がガンなんだから、他者に振り回されない理想のアタシ!これよね。これっきゃない。…が、しかし、目標は決まったが、ぢゃその理想のアタシつったって、どーゆーの???そこで、数多の「理想」論/セミナー等が大活躍する。んで、その中から見繕った「理想」像に、自己を夢想鼓舞させ自己同一化して、メデタシ。メデタシ。
…と、多くのご高尚な「理想」を解く説は、「理想」=自己となるのを最上の状態としてるが、その「理想」を理解することが果たして、自己にとっての「自己回復」となるのであろうか?

all or nothing

「理想」=輝かしい「正しい」自己という「超越思想」に執着すると、そぐわない不都合なこと、グレーゾーンなことを次々切り捨て、「理想」との整合性を保とうとする。all or nothing であることに、壮快感さえ感じているひとが多いのではないだろうか。まあ、なんであれ気持ちよければそれでいーのかもしれない。
が、逆に現実との不整合は拡大し、結果、現実からうきあがりっぱなしで立場を狭くしてるひとを、多く見かける。これが、(運動系も含めた)「死屍累々」に陥る理想の膨大な風景だ。だが、「理想」を語るひとほど、輝く頭上しかみない。なんだか変。
ま、そこまで極端でなくとも、all or nothing というのなら、そんな浮き足立って肥大した「理想」=自己への執着は、理想たりえたとしても、果たして自己たりうるのか?そうした時、自己は何処にあるのか?という吟味/考察/検証がそこでなされないとおかしい。…そうすると、大抵、「理想」で自己が塞がれている状態であることが殆どではないだろうか。「理想」と現実を繋げようとする自己が塞がれているからこそ、「理想」が現実に繋がらず、結果、浮き上がって立場がない、とか。
なんであれ決断は、リスクを伴う。だからこそひとは、外部に絶対的な正しさを求める。all or nothing は、「絶対絶命」という状況判断=自己(視野)の正しさへの信仰を、自他に強要してしまう。そうしてしまうからこそ、オルタがなく、内部=自己が肯定される。が、しかし、その内部空間は、そうしたall or nothing を繰り返す内にだんだん空間がせばまってくる。そうして自己からnothingしてきたものは、なんだったのか?いや、そもそもそういう思考方法は、はたして妥当なのであろうか?なぜ、自分は all or nothing しか選択肢がないのか?そしてどっちも選びがたいことになってるのか?
…だったら、なるべくそういう選択肢が限定される状況に自分を追い込まないことが、肝心なのではないだろうか。

理想/原理の使い方

「理想」は、ひとつの表現物=作品でしかない。そのカタチを愛でてても、いつまでたっても自己はおろか思想的自己も生成されない。その関係では、ソレは作者のものであり続けるからだ。ワタクシが考えるに、信仰以外の生き方としてそうした「理想」とは、ソレを理解しつつも懐疑を持つ(介入する)ことではじめて自己の考えが生成していく際の「通過儀礼」なのではないか。鎧にしたソレの中で生きる〈私〉的共依存でなく、ソレを自分に活かすとは、ひょっとしてそういうことでないかと、想う。
本を閉じ、映画館を出て、音楽は途切れて、イベは終わらせて、ネットを切断し、学校を出て、仕事を終わらせて、仲間共同体と別れて、自分固有の日常に戻って初めて、「理想」からも自由な自分と「理想」を活かす新しい場=発想が出来るのではないだろうか。トランスというのが自己思考に有効になるには、様々な理想を横滑りショッピングするということではなくて、そうした様々な社会フェイズのどこにいても OK!ってことであると想う。その采配(分割統治する自己)は、外部の理想論(=集団/共同体)=〈公〉にあるのではなく〈個〉=他者に相対する自己表現にあることが、同調圧力の強い社会、世間=人の目の自己内面化を食い止め払拭する手立と、前回仮定した。
また、そうした思想の負の面を「ない」とする、もしくは負をゼロにしてく対策してるから万全だとする思想側のやり方は、人間不信をまねくだけである。具体例をあげれば「原発は安全管理されてるから、危険はない(だから事故対策を考える必要ない)」という、どこぞの機関がよくやる言葉ダケ積み重ねたペーパーの中ダケの整合性にすぎないのと、同一発想方法だからだ。

解脱=理想の折り畳み方

さて、そうした時、ふみあしさんは、その〈個〉がカバーする筈の〈私〉的自己は脆弱性・不安定性なものであり、なにか別のものでささえないといけないと提起されている。id:hizzz:20050802#p2 
all or nothing でカキコしたように、世の中は放っといても、そうした「理想」論にみちみちているし、次から次に「新しい」「真実」とする理想やセミナーが、とっかえひっかえ喧伝されている。「なにか別のもの」という外部的なものを求めるやり方は、「自分探し」とまた同じ穴のムジナと成りはしないだろうか?
また、ひとつのイベで様々なものの原理/真理を求めるやり方は、all or nothing を加速することに容易に結びつきやすい。レイブトランスによる高揚感に表現しがたいスピリチュアル体感をもって単なる快楽ではない原理/真理の 集団獲得を目指すという手法は、そもそも難解すぎて理解者が限られるのに加え、錯覚や夢想とどう違うのか到底第三者検証が出来ないので、それを論拠だてる為にご都合主義に解釈されたスピ理論の付け入るスキを与えるし、第三者の入る余地のない「空気の理論」なソレを過大評価するのは、全体主義を容易に招聘する危険性の方が大きいような気がする。*1
さて、こうしたmyヨタに多少でも妥当性があるならば、実は、理想=自己という現在のあり方自体を自分で壊して初めて、やっと等身大の自己と向き合えるのではないだろうか。なんだかそこを避けていても答えはないようにも想える。「脆弱性・不安定性」だから、足りないトコを補強して備えるのではなく*2脆弱で不安定な部分は負ではなく、自分の中のグレーゾーンゆえ可変部分が多い=外部接続への選択肢が多いという解釈もできるんではないか?
『アーバン・トライバル・スタディーズ―パーティ、クラブ文化の社会学』を使って積み上げる原理論は、思想限界値の実践としてはいーかもしれないけど、アクロバットな思想マニア向けって感じなんで、もそっと万人向けには、勉強したり修行したりするんぢゃあなくて、いま持ってるもので簡単に出来やすいこと「負(とおもいこんでる部分)の読み替え」、これシンプル故に実行適用性や外部検証性*3、なくない?

*1:個人的体感でそうしたものを獲得し、検証確認する安全な方法としては、スポーツや音楽やダンスを含めた各種芸事がある。そうしたコトを見て聞くダケでは、ベンヤミンを読むのと同じで、ヤルことを身体化できない。無論それが「集団」同調になると、体育会系という全体シバキ主義に直行するのは山のような例がある通り。

*2:だってそれぢゃあ、強い自己が理想っていう以前と同じことだしね

*3:読み替えすぎて誇大自己になってないか

オープンな理想論

「理想」を掲げる側では、いくらこ難しい理論をこねくりまわして風呂敷を広げたところで、こうした「死屍累々」状況にほうかむりをして無責任なその場の癒し強調で個人の日常の芽を積み、結果的に視野狭窄になることでしか続かないような運用(囲い込み)を志向するならば、大抵のひとには でしかない。*1
今一番必要なのは、そうした「理想」の折り畳み方である。そうして身軽になって初めて自由自在にトランスを楽しめるというもの。なのにアレコレぶっこんで身重にして、どーするよ?「理想」論で自己を語るというやり方にちゃんとメスをいれないと、どんな理論をもってきたとて肥大してくばかりだとおもう。
「理想」の可能性を語ると同時に、有効範囲を限定する(他者性)ことと、トラブルや考慮される危険性(社会性)について明かにすることが、具体的に普遍的全体像=社会を表現することともなり、それが個人が浸食されずに程よい距離を保ちつつ「理想」を健全に育むことにも繋がるのではないだろうか。

*1:指導的立場にある表現のプロとするならば、後で、内容的にダブルスタンダードとも解釈できる、「関係ない」読者に内部事情等をエクスキューズを色々展開する位なら、予め本論にチキンと折り込んで書いておいてしかるべきであろう。>北田本、上野本