国家の肖像

国家・国民・民族とかは、近代がこさえた『想像の共同体ベネディクト・アンダーソンであること定説にはなってはいるがしかし、そもそもそゆ概念、空想だろーが仮装だろーが実装だろーがここ日本ではいまひとつ馴染みがないお仕着せなもんでしかない。「ナショナル」はともかく、「ネーション・ステート」なる集合体概念はより実感しずらい。だから、それをどーにかするしないの議論をするにしても、憲法を始めとしてどーにも身がはいらないようで断片ばかりがバラバラと散逸していてうすぼんやりとしてしまうのは、ワタクシだけ?
てなことで、国家概念の本家ヨーロッパはなにをどーしてそーしようとそーなってるかを、ちょっとさらってみる。

神的支配から人的支配へ

ヨーロッパとは何か』クシシトフ・ボミアンに依ると、12〜16世紀にかけてのヨーロッパでは3つの文化が存在してた。ラテン語の聖職者スコラ文化、各地の俗語で朗読・口承されたネイション形成途中の戦士・騎士文化、北イタリア・フランドル・ラインラントの都市貴族・市民文化=商人・職業の実践、それらから切り離された外界にあった土地固有の部族・農民文化である。中世伝統のスコラ文化にとって変わろうとする人文主義の台頭は15世紀。人文主義はスコラ文化と異なり、聖職者だけでなく俗人にも関係しており総合力があった為で、各民族国家において、国の過去の賞揚に用いられ支配の礎となり、人文主義者は公式の歴史編参家の称賛者となった。

それぞれの国で地元出身の人文主義的文化が形成され、ヨーロッパ規模で普及した結果、古代人の遺産の、時を超えた普遍的、全体的価値を万人が認めることを基盤として―だからこそ宗教改革以後もこの統一は存続したのである。―ヨーロッパのエリート層の統一が強化される一方、同じ流れにより各民族(ネイション)の歴史、言語、文学の品位が高められたことから、同じエリート層の差異の深化もまた起こったのである。
印刷術の発明と普及がなければ、人文主義がこれほど急速に、深くまた持続する効果を及ぼすことはまずできなかったであろう。…こうして印刷術は、ヨーロッパのエリート層の統一を強化した。しかし同時に、民族的(ナショナル)な差異も深めることになった。なぜなら、俗語で書かれた作品がしだいに数多く公刊されるようになったからである。

増補・ヨーロッパとは何か―分裂と統合の1500年 (平凡社ライブラリー)』クシシトフ・ボミアン

ロッテルダムエラスムスは印刷術によって、文字どおりラテン・キリスト教世界にあまねく知られるヨーロッパ的人物になった。物理学よりも論理学を重視した彼は、「キリストの哲学」と「文芸」を顕揚し、個人の自由と意識の自律性を擁護した。彼の膨大な書簡の読者は上層知識階級だけでなく、各俗語に翻訳印刷されて学校教師や司祭といった者から市民やさらに職人までもの、自身の宗教道徳的観念や時代的不幸に対する意識にふれることとなった。没後地バーゼルは、人文主義者達の国際的連合の中心になっていった。そしてその流れは、宗教戦争が終息したパリに移動し、仏語書物はしだいにラテン語書物をしのぐようになっていった。またナントの王令廃止によるユグノー追放は、結果的にヨーロッパ各地にそうした知識人文主義な仏文化を広めることにもなった。
宗教に対する政治の自律は、16世紀から国家より上位に位置する教皇により守護される「キリスト教共和制」の原則ではなく、国家が主催者として自らの利益を定義し手段を選択して利益を守る権利があると、「国家理性」という観念で語られはじめていた。

人文理性の戦い

そうした教皇vs国家の人文理性争い=宗教改革で国家が勝利を収めたところで、フランスの啓蒙文化が華開く。しかしなんだかんだいってっても国家の対抗馬=ネガとしての人民でしかなかった啓蒙支配思想に対して、その次はブルジョワvs人民の人文理性争い=革命が起こってくる。そんな仏文化への2大要塞は、英国とスペイン。分業と市場重視のアダム・スミスな諸国民の富に力点を置く個人(自由)主義の英国、宗教を重んじつつ民族的(ナショナル)伝統を強調していくスペインとそのベクトルは啓蒙普遍を中心とするとまさに2極であった。フランス革命〜ナポレオン侵攻はヨーロッパ諸国に民族(ナショナル)感情熱を引き起こした。

スペインでも同じような現象がおこったことは、―しかも、比較を絶するほどの激しさをもって―、啓蒙思想にひたっていたフランス人にはまったく理解しがたかった。大司教枢機卿の命令でジャコバン派が貧民に皆殺しにされたナポリパルテノペ共和国(1799年成立)の悲劇的な結末からも、ヴァンデーの反乱(王党派の反乱1792〜95年)からも、まったく教訓を得なかったらしいフランス人は、異端裁判や無知な聖職者層をはじめとする中世の迷妄の桎梏からの解放者として歓迎されるにちがいないと確信してスペインに侵入していった。ところがフランス軍が遭遇したのは、少数の新仏派を除くエリートの執拗な抵抗と民衆のゲリラであった。みずからの君主制、伝統、信仰を擁護するためには戦争のあらゆる惨禍に耐え、かつ敵にも被害を与えようと決意を決めた国民(ネーション)に、フランス人はぶつかったのである。
同じようにティロル地方や、貴族と農奴の身分が完全に分離されているロシアですら、フランス軍の侵攻はスペインと同様、民衆をあげての国民的(ナショナル)抵抗をひきおこした。

しかしナポレオンとの戦いで喫した敗北(イエナとアウアーシュテットの戦い1806年)から最も早く、最も理論的に政治的・軍事的教訓を導き出したのはプロセインであった。

プロセインは、言語、伝統、民族史への固執や、とりわけフランス支配の拒否によって民衆と強い絆をもっていたエリート層のかなりの部分の影響を受けて、諸制度を改革し総動員に基づく軍隊の再編成を行い、その後、全国民の兵役義務を導入した(1814年)。国民(ネーション)の観念を戦争遂行に適用しようとした知識人や政治家を含む将官たちに導かれたプロセイン軍は、大量動員からなる軍隊としてはフランス軍についで2番目の国民軍だったが、そのおかげでナポレオンに対する勝利者のなかでプロセインは特権的な地位を得て広い領土を獲得し、ドイツ統合への道が開けたのである。

諸地域で引き起こされた侵略に対する国民的(ナショナル)抵抗とその勝利は、自地域の風俗の文化昇格へとつながる。最も国民性(ナショナリティ)があるものとして、文化人たちは好んでそうしたものを素材にして、従来の形式メソッドを崩す感情主観的表現を行い、普遍理性は後退するとともに既存権威宗教も後退し、神秘主義やうずもれていた中世民衆信仰が復活した。それらがロマン主義へと発展していった。その中で、啓蒙文化とロマン文化の統一への試みは、ゲーテやベートーベンやヘーゲルといった巨匠によって代表される。そして、解釈学というシュライエルマッハーの試みが生まれたのも、その一つであった。

解釈学とは―まずは宗教作品を対象にし、その後、文学・芸術作品に向けられた―作品の外面にのみ関心を示していた古来の批評とは異なり、作品を理解するために、そこに内在する原則、それぞれの作品に有機的な統一と固有の意味を与える原則を把握しようとつとめる方法である。
作品を理解するには学者みずからの内に作品を再創造しなくてはならない―ただし再生可能な仕方で―として学者の直観と想像力に訴える解釈学は、考証学者と哲学者の修正を経た人文主義の遺産に当時まで基づいていた、精神史、文学史哲学史、宗教史、芸術史ならびに文献学を革新した。解釈学の影響は政治史にも及んだが、…こういったことが可能だったのは、その他の諸国とは異なり、ドイツの大学が研究と教育を合体させてはじめていたからである。それは、真実を理解させるには真実を発見するすべを知り、他人のために真実を自分の内に創造しなくてはならないという解釈学の原則に基づく合体であった。

プロセインの近代化を目指したヴィルヘルム・フォン・フンベルトは、この解釈学を最大限に生かした。それは国家の財政補助を受けつつも知識獲得と伝達に関すること全てに自治権をもつ研究教育機関としてのベルリン大学に、表象された。以降ベルリン大学は、大学の規範的在り方・知の正当権としてヨーロッパ中の衆目のおかれる処となる。
しかし王政復古となってもフランスは依然として啓蒙思想の牙城であり、普遍の追及は革命中でも遂行された国家的大規模ミッション度量衡に結実する。>『万物の尺度を求めて―メートル法を定めた子午線大計測』ケン・オールダー 
このような普遍志向は、人間研究・行動に統計手法を採用したケトレによる社会科学を生み出した。アンシャン・レジームと結びついた啓蒙主義にとって周縁においやられたロマン主義は、民衆運動と結びついた反体制となり、フランスにおける啓蒙(社会科学)vsロマン(解釈学)は以降、政治性色を強めつつ、普遍と周縁を網羅する両輪アプローチとなる。
ビル・レディングス『廃墟のなかの大学』に依れば、「理性」はその批判力によって、単なる経験学問を理論科学に押し上げ大学全体に自律性を与える基礎になるとして、「理性の自律性」を最上位にかかげたカントではあったが、その自律を大学制度内制度にしてしまった自律の他律化を解消するために、より大きな制度=国家を求めることになったという。そこでの大学の自律とは相対的なものであった。「民族統一体としてのドイツ人国家を正当化する」課題にあったドイツ国家が必要としたのは、「民族統一体としての文化」であった。そこで、国家と手を結んだ大学は、国家「正統性」達成としての「文化」探究にシフトする。フィヒテ、シラー、シュライエルマッハー、フンボルトらカント以降のドイツ観念論者は、「伝統の解釈」によって、過去に回帰するのではなく、伝統を合理的な民族的自意識にまで高めるのだ。その伝統の解釈こそが「文化」であると、理性による進歩と伝統による回帰との調停という弁証法となった。そして大学の役割は「国民に対し、それに従って生きるための国民国家という理念を与え、国民国家に対しその理念に従って生きることのできる国民を供給する」機関となった。

人文理性から科学論理性へ

18世紀博物学の秩序整理となった進化論は、社会哲学者が歴史家の「直観」の裏付けとして使われ始め、科学に対する社会の投影方式は、資本主義社会の階級利害や植民地支配といったものの正当化と批判に持ち込まれる。

進化論は18世紀の博物学者が精錬してきた生物を秩序だてて整理する図式を引き継ぎ、これに説明的なダイナミズムを導入した。歴史学スコットランド学派によって最初の下絵が描かれた社会進化論─が科学者たちに、その先輩たちの創り上げた「自然体系」に動きをもたらす鍵を提供した。そのお返しに、今度は「科学」が社会哲学者や歴史家の直観の裏付けに回り、文化人類学社会学といった、科学での接近を望むあらたな社会研修分野に基礎を提供した。(ラドクリフ=ブラウンにとって社会人類学は、「自然科学の一分野」だった)
進歩の概念によって力を得た直線的歴史観─自然史及び人類史─を中心要素とするこの総合的なパラダイムが、科学に対する社会の投影という性格を大いに持っていたからといって、これが資本主義社会内部の階級的利害や、世界的に見た場合にはヨーロッパ新の他の集団に対する植民地支配の、単なる正統化にすぎなかったというわけではない。これは大きな思想の枠組みであり、その内部では同時に正統化と批判、どちらの姿勢も展開することができたのである。社会進化論は「ブルジョワ文明の宇宙的系譜の一種」と定義されてきたが、ブルジョワ文明に対する批判的見方と共存することも可能だった。
この理論を批判的に用いるには、現在を「歴史の終点」とみなすことを止め、それを人類の進歩における過渡的な一段階にすぎず、そこには進歩をさらに進めるために克服されるべき否定的な性格が残存していると考えるだけで十分だった。これがマルクスの初期ヴィジョンだった。当時のドイツを特徴づけるギリシャ文化崇拝の中で教育を受けた彼は、独自の社会・歴史解釈をスコットランド学派を批判しながら練り上げ、技術の支配度によって定められる「生活様式」を、人間関係の性質による「生産様式」へと変換した。しかしこのために単一の直線的進歩の図式を受け入れてしまい、こそから逃れることができたのは、やっと晩年になってからであった。(その劇的な結果としては、彼の後継者たちは初期のより図式的な定式化に固執して、マルクス晩年期の疑問や修正の光に照らしてこれを改めることができずに終わった。)

鏡のなかのヨーロッパ―歪められた過去 (叢書ヨーロッパ)』ジョセップ・フォンターナ

ブルジョワ社会科学の依拠する原理を受け入れた「科学的社会主義」は、資本主義の相克は「超産業化」によって実現可能であると思いこんでしまったように、非ヨーロッパ諸国もそのヨーロッパ支配政党化という役割を末梢する際にはこれを占有できると信じ込むという、同様の過ちの犠牲者となっていった。これまで文人/詩人/芸術家の特権階級で占められていた知のカテゴリーに、産業革命で急速な進化を迎えた「科学者」が加わったことで、大文字の科学としての「教養」ヒエラルキー構造が、ドレフュス事件を契機に自己をマニュフェストして政治化する知識人と社会的エリートの対立などもからんで、新聞メディアが庶民を巻き込んで醸成した輿論でもって、「大衆」動員社会が生成されていった。>『「知識人」の誕生 1880‐1900』クリストフ・シャルル 
産業革命以降のヨーロッパ各国の戦略的重要課題は、国民(ネーション)の<垂直統合>の完成が焦点となった。「テクノロジーによって制御されたエネルギーのみが、文化的進歩をもたらせる」という産業革命のセオリーよろしく、排除することが不可能な社会紛争をできるだけ抑え、生産力を強化する為には、民主主義を採用することが国益に適う方法論であった。議会と世論の代弁機関という調節弁を通した国民(ネーション)を構成するあらゆる階層・階級要求をくみ上げるとする国民国家(ナショナル・ステート)構造は、こうして正当化され採用されていった。

あらゆる人間は「他者」の鏡に自分を映し、そのイメージと異なるように自らを定義する。しかしこれは同じ言語を話し、生活様式や習慣を分かち合っている共同体にとっては容易いが、ヨーロッパ人という規模になるとそうもいかない。16世紀以降、宗教統一が破られ、さまざまな俗語を用いた文学が力を得てからでは、なおさらである。1714年のユトレヒト条約が「キリスト教社会」という言葉を用いて書かれたヨーロッパ最後の文章であった。以来この複合的な集団は、より複雑な鏡の組み合わせに自らを映し、その多様さを認めた上でその他のものからは区別できるような自己定義を可能にするものを見つけ出す必要に迫られた。ヨーロッパ人の自己定義のこの新たな形式は、もはや宗教とは関係がない、自分たちは精神的・知的に優れた存在であるとの信念に基づく意識から生まれた。このイメージを練り上げる土台となった新たな参照タームが、非ヨーロッパ人の劣等生というものだった。しかし自己定義を求めてヨーロッパが覗きこんだこの鏡は、2つの面を備えている。一方には人種の違いが「見え」、「野蛮人」の顔が映っている。ヨーロッパ中心主義史観に基づいたもう一方には、「未開人」が見える。前者いから民族虐殺(ジェノサイド)と奴隷化が、後者から帝国主義が誕生した。
「国民(ネイション)」と「国民国家(ネイション・ステイト」を混同してはならない。国民感情―共有文化に基づく集合的意識―は、いかなる時代にもどこにでも存在しており、従属関係や植民地支配から独立するべく戦う共同体において、解放を求める力として機能してきた。国民国家はこれに対し、19世紀に固まったもののように、通常は以前の絶対主義国家が装いを新たにしたものにすぎなかった。

ヨーロッパは自己意識/他者意識の構造のように内部空間における支配/被支配の構造が「ヨーロッパ的なるもの」を生み出してきたというフォンターナによれば、こうしたヨーロッパ史観は民衆を内なる野蛮人という役に押し込め歴史と意識を奪うことによって、既存社会秩序を維持しようとする権力者のために創られたもので、「歪んだ鏡に映じた自己像」であるという。

国民国家と領土

それまで為政者たちの権力欲に基づいた軍事・政略上の力関係で決まっていた領土=国であったが、19世紀以降の「ネーション」の名を負う国民国家たる領有範囲とは、国民=民族が本来持つべき領土というナショナリズム論理が台頭してくる。それは、自己領土を守る為の「生命線」的意味での周辺領土保持という国境拡大路線の口実ともなるし、そうした「本来持つべき領土」を他民族が支配していたら、それは不当な異民族支配という帰結に容易に結びついた。学問的には、これを「イレデンティズム=失地回復」という。
第二次大戦後ドイツの領土問題といえば、冷戦による東西分割が思い浮かぶが、ドイツのナショナリズム的にはもう一つを加えて3つに領土が分割されていた。それがドイツ東方、オーデル=ナイセ領、ポーランドとの国境線問題であった。ポツダム会談で、オーデル川とナイセ川を境にしてドイツとポーランドの国境は引かれたが、その境より東のポーランド側にはドイツ民主共和国東ドイツ)とほぼ同じ位の広さをもつ旧プロイセン王国領であった地域(東プロセイン、ポンメルン、ブランデンブルク東部、シュレージエン)があり、第二次世界大戦末期のソ連軍事進攻以降、連合国管理下には置かれずソ連ポーランド直轄地であった。
スターリンの領土的野心や「民族的に純粋な国民国家」観から、そこに住んでいたドイツ系住民は、その他の中東欧に住んでいた全ドイツ系住民と共に「追放」させられた。残留者も2級市民的な差別を受けたという。一方ソ連領内のナチに協力したドイツ系住民は、中央アジアやシベリアに強制移住させられた。そんなドイツ系を追い出した後の東方領土には、ポーランド国境の西方移動により、ソ連領となったポーランド東方から追い出されたポーランド系の人々が移住してきた。強制移住させられた者達1500万人は「被追放者 Vertriebene(r)」と呼ばれ、祖国喪失と共にドイツのナチズム以外のもう一つの過去問題としてドイツ戦後のナショナル・アイデンティティに深い影を落としてきた。>『異郷と故郷―ドイツ帝国主義とルール・ポーランド人 伊藤定良
ナショナル・アイデンティティと領土』佐藤成基では、ナショナル・アイデンティティを「ネーションあるいはそれと等価なカテゴリー(国名・民族名などの表象概念)を用いてなされる自己理解の方法」と概念規定する。その前提として3点を挙げる。

第一に、帰属の対象として「ネーション」という集合体を実体現しないということである。「ネーション」という集合体の存在を最初に前提にしてしまえば、ナショナル・アイデンティティはその集合体への帰属意識・帰属感情として唯一のものが想定されてしまう。となると、ネーションとしうカテゴリーを用いてなされる自己理解の方法としてナショナル・アイデンティティをとらえ、その意味の多様性や変異を問うという余地がなくなってしまう。
第二に、ナショナル・アイデンティティは個々のアクター(個人であれ集合体であれ)が、その実際的活動の場面において理解し・解釈するものである。各アクターは、それぞれの文脈の中で、その置かれた地位や利害関心の下、「ネーション」を様々に解釈し、主張する。また、そのように主張されたナショナル・アイデンティティを受け入れ違和感を抱き、批判し、あるいは忘却する。このような個々の解釈行為を超えた何らかの超越的かつ不動な理念として、ナショナル・アイデンティティを想定することはできない。
しかしながら第三に、ナショナル・アイデンティティは個々の行為者の主観の中で別々に構想されるものの単なる集積ではない。ナショナル・アイデンティティは、個々の主観的認識から相対的に独立する。集合的に共有された自己理解の枠組みである。たしかに個々の行為者の理解するナショナル・アイデンティティはそれぞれに異なっているであろう。しかしそのような個々の行為者の理解するナショナル・アイデンティティを積み上げることによって、ナショナル・アイデンティティの「全体像」に迫れるというものではない。ナショナル・アイデンティティとは、個人のアイデンティティではなく、あくまで集合的なアイデンティティなのである。…しかしそれは、先の二点で否定したような、超越的で不動な理念ではない。その共有の程度は様々であり、複数のアイデンティティが競合し、錯綜し、共存する。その勢力布置状況は時と共に変化する。

ナショナル・アイデンティティと領土』佐藤成基

本は、単一でなく様々な解釈が複合的に創作するネットワークとしての「ネーション」として、共同体について成員たちがもつ自己理解のための解釈論の図式を問うかたちによって、戦後ドイツの「帝国アイデンティティ」から「ホロコーストアイデンティティ」へのナショナル・アイデンティティの変遷を、ポーランドとの和解と東西統一を契機に戦争が引き起こした負の価値を正の価値にして国民的合意をへて1990年国境最終確定をもって東方領土を自己決定により平和的放棄した過程のコンテキストを、様々な政治アクターが参加した「公共的言論界」と捉えその攻防を追う。
連合国側によって勝手に引かれた国境線への不満に対し、それでは「本来のドイツ」はどこからどこまでなのか?という問題が浮上してくる。ドイツ右翼といったらネオナチを連想してしまいがちだが、それは極右であって、さすがにドイツ連邦共和国(西ドイツ)の大半は拡張軍国主義ナチスドイツエリアを本来ドイツとはしない。1937年段階でのドイツ領土(ヒットラーオーストリアチェコ侵攻前)存続が正当前提である「帝国アイデンティティ」とした。第一次世界大戦後のベルサイユ条約でドイツは西プロセインとポーセンを失い、その時もドイツ移住かポーランド下での強制同化と差別の対象にドイツ系住民は遭遇していた。そうした流浪の歴史にある被追放者諸団体は、その妥当性根拠を故郷で生活する権利「故郷権」に求め結束し、「失地回復運動 irredentism」を担った。

負を正とした国家アイデンテイティ

キリスト教徒を含めて難民申請受理されなかった避難・強制移住者達の援助・警察からの保護活動に深く関わっていたドイツ福音教会は、1965年『Denkschrift 福音主義の覚書』を発表する。本来直轄地域民の為の1宗派施設であった教会は、肝心の教区民が追放・移住によって移動して繋がりが途切れてしまった為、広くキリスト教センターとして異宗派を受け入れることとなり、またキリスト教的普遍主義は、非キリスト教徒をも隣人の「犠牲の民」として受容することとなり、迫害・犠牲の牙城となっていった。
福音主義の覚書』は、ドイツとポーランドとの和解と対話、平和的な共存の為にドイツが東方領土で一定の譲歩をする必要性を説き、「緊張緩和は政府がドイツ人民の中に東方の隣接する諸民族との間の精神についての理解と同意を見出すことができる場合にのみ、可能なのである」とした。さらに、過去「ドイツ民族の名」において行われた罪や不正、現在のドイツ人に新たな「義務」を発生させていると論じる。

東側の隣人たちから、ドイツ人の平和を守る義務という観念がもたらされたのである。またポーランド国家は、ドイツとの苦痛に満ちた歴史的体験のあと、安全保障への権利を高め、彼らにとっての高度の安全を保障するような国境を選択しなければならない。この安全保障を、軍事的な意味で理解するのであれば、この議論は説得力をもたないであろう。第二次世界大戦後に勝利国によってほとんど恣意的に引かれたオーデル=ナイセ線が、ポーランド保護のために戦略的に有利であると見なそうとしうのではない。何百万ものドイツ人住民の追放、特にポーランドの西側からの追放は、不満と動揺の原因を生み出したのであり、安全保障と平和の国境とは別のものを創出したのである。しかしここでの議論は、次のように解釈するならば、正当な本質を含意する。
苦痛な過去の遺産は、ドイツ民族に対し、将来ポーランド民族の生存権を尊重し、ポーランド民族の発展に必要な空間をのこしておかねばならないという特別な義務を課している、という解釈である。ドイツ帝国は1939年8月23日に独ソ条約(リッペントロップ=モトロフ条約)によって新たなポーランド分割と東ポーランドソ連への併合に合意する宣言を行った。よってドイツ政府は今日、東ポーランドの喪失によりポーランドの経済的生存に不可欠となった[オーデル=ナイセ以東の]領土の返還の主張をとなえることを慎まなければならない。

『被追放者の状況と東方隣国との関係に関して―福音主義の覚書』ドイツ福音教会

これはマックス・ホルクハイマーやテオドア・アドルノらの亡命者を中心としたフランクフルト学派やカールー・ヤスパース、ギュンダー・グラスらの文化知識人達の議論に端を発したものでもあった。第一条「ドイツ民族は世界のすべての人間共同体と平和と正義を基礎づけるものとし、不可侵で譲渡しえない人権を信奉する」、ドイツ憲法基本法制定過程からはじまっていたこれは「ホロコーストアイデンティティ」と呼ばれる。
発表当初複雑な反応を引き起こした『覚書』は、その後「戦後承認」に向けてのきっかけとなる。ヴィリー・ブラント首相の新東方外交以降、政治家はドイツ民族に要求される「犠牲」について「過去の克服」*1として言及していくこととなる。またこの時期60年代は、ナチ犯罪追放キャンペーンが有力政治家の過去にも及んだ。70年代になると、ナチ犯罪に偏りすぎた過去歴史に対してコール政権は修正を試み過去から脱却した「普通の民族」として「過去の正常化」を図る一方、新勢力である緑の党などの平和運動系が、現代でも外国人差別を生み出しているドイツのファシズム的本質の克服までも含んだ「過去の克服」史観を展開した。
そんな攻防土壌の後に、1986年、ユルゲン・ハーバマスらの『過ぎ去ろうとしない過去』歴史家論争が起こった。「過去の正常化」である保守派のエルンスト・ノルテが、ソ連ボリシェヴィスムへの防衛としてナチ暴力が発生し、スターリニズム暴力と比較可能であるとしたことに対して、「過去の克服」左派であるハーバマスらが反論したもの。保守派はナチ犯罪を全面擁護した訳ではなくナチズムを他のケースと比較可能にすることで、ホロコーストの脱「聖域」化を目指すことによって、領土放棄という「犠牲」決意を主張する「過去の克服」論の根拠を崩そうとするものであった。が、結果は、保守派の思惑と正反対にかえって過去の異常さが浮き彫りになった。政治的には、「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」というヴァイツゼッカー大統領のホロコーストアイデンティティを取り入れた終戦40周年記念演説に現れた。>『荒れ野の40年―ウァイツゼッカー大統領演説全文 1985年5月8日 (岩波ブックレット)*2
1990年代に入り、東西ドイツ統一がいよいよ政治の現実課題にあがってくるにつれて、他ヨーロッパに脅威を与えない過去との決別を見せるという実利・現実論にも、憲法愛国論として「ホロコーストアイデンティティ」ははまっていった。西ドイツの経済的成長により移住民達の新天地でも経済基盤は盤石化してたということが「帝国アイデンティティ」は実利より精神的な面に後退してたところに、旧領土残留者も含めて被追放者というマイノリティ・ドイツ人は、「ホロコーストアイデンティティ」では対話と共存を実践するロールモデルとして表象されるようになった。そして、統一ドイツのアイデンティティとして、「ホロコーストアイデンティティ」が体制下されるに至った。
統一ドイツを超えたEU東方拡大はかっての追放国家であるポーランドチェコを含み、ヨーロッパ全般の人権規範の高まりと共に、従来の戦争被害と共に、ドイツ自身の第二次世界大戦被害者と「追放の不正」問題が表面化し、相対化ではない過去の並列化が可能となった。自身ダンツィヒグダニスク)を追放されたが反国民国家であり左派リベラル言論を担っていたギュンター・グラスの、ナチ末期のドイツ人災害事故を扱った『蟹の横歩き―ヴィルヘルム・グストロフ号事件』はそのような中で出版され、さらにその後、武装親衛隊に所属していた過去を告白し、批難を含んだ大反響をひきおこした。>『玉ねぎの皮をむきながら
これまでのナチ犯罪だけを絶対視してきた「ホロコーストアイデンティティ」は、ナショナリズム的にはネーション・ステート的憲法愛国主義に結実している。しかしややもすると相殺化されかねないこのような過去並列化の昨今の機運によりナショナル・アイデンティティは、EUという集合体の「ステート・ネーション」と重層共存していくのか、それとも新たなる統一と離散を得て変容していくのか。こうしたギュンター・グラスの人生に於ける立場の「揺れ」にみられるように*3、「ネーション」概念は多義的なものであった。ひとの人生というものがそんなに平面一義的なポリシーで営んでいけないように、様々な時流が吹き荒れる陸続きのヨーロッパ諸国は、領土の拡大-喪失を繰り返し国境線の変更にさらされてきた。ドイツ人といっても、そうした国民国家(ネーション・ステート)ドイツとは別の、国家(Staat)から切り離された民族(Volk)としてのエスニック・ドイツ系が政治的存在として国内にフイートバックして、極右から極左に至る概念のグラデーションを作っているのであろう。そうした歴史から見てみると、むしろ国民国家(ネーション・ステート)自体かなり特異な概念であるといえる。
19歳まで過ごしてきた生まれ故郷アルジェリアをフランス人であると認定され追放されたデリダとハーバマスのイラク戦争をきっかけにだされた『われわれの戦後復興―ヨーロッパの再生』id:hizzz:20090103の背景には、こうしたネーション・ステート的アイデンティティを跨ぐ高次のステート・ネーション・アイデンティティの腑わけの必要性に迫られた表明に他ならないのだろう。

*1:ドイツ連邦共和国初代大統領テオドーア・ホイスが言った言葉。ヒトラー支配下ドイツ=ナチス・ドイツがもたらしたおぞましい帰結の様々な取り組み(被害者補償、体制犯罪司法訴追、歴史教育、政治・制度実践、文化活動など)の総称

*2:ヴァイツゼッカー自身は、リベラル左派ではなく教条的保守派。この演説の背景は、ヘルムート・コール首相が、訪独したドナルド・レーガン米大統領をナチ親衛隊も葬られていた墓地に案内した失態を糊塗するための、政局がらみであった。

*3:グラスはドイツ統一を批判した小説を出している。>『一筋縄ではいかない』

寛容・歓待・コスモポリタニズム

デリダ&ハーバマス共同声明発表前、911を強く意識して編纂された『テロルの時代と哲学の使命』ジョヴァンナ・ボッラドリは、ヨーロッパ知識人のテロリズムへの<啓蒙>作業について2人に個別インタビューをしながらその政治姿勢について考察してる。
米政府の「テロ撲滅」声明を受け、普遍主義と寛容について、道徳・政治哲学の観点からハーバマスは応える。

ユルゲン・ハーバマス「寛容の概念は歴史を通じてそうしたコノテーション(寛容は「歓待」あるいは「友愛」の概念におきかえられたほうがよい家父長主義的語彙)を持ってきました。…ナント勅令により、フランス王は宗教的マイノリティであるユグノーに対して、王権とカトリックの至高性に疑義を唱えないという条件で、自己の信念を告白し、自己の儀礼を維持することを許可しました。寛容は、数世紀にわたり、このような家父長主義的な精神において実践されてきました。主権を有する支配者あるいはマジョリティの文化が、それ自身の裁量で、進んでマイノリティの逸脱した実践を「寛容に扱う」と宣言するわけですが、その宣言が持つ一方的な本性は家父長主義的です。このようなコンテクストにおいては、「寛容な扱い」という行為は、憐みによる行為、あるいは「施し」の行為の要素を保持しています。寛容に扱われるマイノリティが「寛容の臨界」を踏み越えないという条件つきで、一方の当事者が協力の当事者に対して「正常性」からの一定の逸脱を許すのです。このような権威主義的な「許容観」に対しては、極めて正当なことですが、批判がむけられました。というのも、何がなおも「受け入れ可能」で、何がそうでないかを分かつ寛容の臨界が、既存の権威によって恣意的に確立されていることは明白だからです、そのとき、寛容は、みずからがその彼方で終わるだろう境界の内部でのみ実践されうるのだから、それ自体が不寛容の核を有しているという印象が生じます。」
「市民の平等な権利と相互的な尊重という基盤の上では、誰も自身の選好と価値指向の観点から寛容の境界を設定する特権を有してないのです。確かに、他の人々の信念をその真理を受容することなしに寛容を扱うには、また他の生活様式をその内在的価値を評価することなしに、私たち自身の生活様式と同じように寛容を扱うには、共通の基準が必要です。民主的な共同体の場合、この共通の価値の基礎は憲法の原理のうちに見出されます。言うまでもなく、この原理に関する真の理解についても論争が生じます。けれども重要なのは、憲法の原理が享受する特異な反省性です。この込み入った問題の説明は、私たちを普遍主義の問に連れ戻します。」

テロルの時代と哲学の使命』ジョヴァンナ・ボッラドリ

と、こうして公共性を第一義に挙げるハーバマスは、倫理と法の両面において「寛容」の側に立つ*1

ハーバマスは自由であって強制的でないコミュニケーションと理性的なコンセンサスの形成を配慮できる唯一の政治状況として立憲的なデモクラシーを考えている。この彼の考え方から寛容の擁護が出てくる。ハーバマスは言う。確かに、寛容という用語はもともと宗教的なものであり、世俗的な政治がそれを自分のものにしたのはその後のことにすぎない。さらに、寛容が本来的に一方的性格を持つことも本当である。「何がなおも『受け入れ可能』で、何がそうでないかを分かつ寛容の臨界が、既存の権威によって恣意的に確立されていることは明白だからです。」しかしながら、ハーバマスの見解では、議会制民主主義が提供するような参加政治システムのコンテクストで寛容が実践されるならば、寛容の持つ一方性は中和されるのである。

ジョヴァンナ・ボッラドリ

そんなハーバマスとは対照的に、「寛容」の代わりに「歓待」を是認するデリダ*2を、「デリダの作業は、歓待の問いを国際関係のコンテクストで初めて提出した、<啓蒙>の主要な哲学者カントの主要なテクストの、精緻な再加工である」とボッラドリはみる。

デリダをある種のポストモダニスト相対主義へ傾いた反<啓蒙>的思想家―として解釈する人々ならば、寛容の普遍的な射程をデリダ脱構築することを、みずからの論拠として利用するかもしれない。しかし反対にデリダにしてみれば、たとえば寛容のような、<啓蒙>の伝統に属する一見中立的な概念をその歴史的かつ文化的な限界において境界画定することは、<啓蒙>のアジェンダを裏切ることではなく、むしろ拡張し刷新することである。現代のとりわけグローバルな課題に向き合うためには、社会批判と倫理的責任は、中立的な見かけを持つが潜在的には覇権的である理念に対する脱構築を必要とする。脱構築は普遍的な正義と自由への要求を切り詰めるどころか、それを無限に新しく蘇らせるのである。

ジョヴァンナ・ボッラドリ

「歓待」の中にも国際機関の本質的な役割と法を尊重する精神を養う必要を強調し「私たちは人権の窮乏のなかにある」としたデリダは、911後の国際政治&外交と哲学者が一緒に仕事をすることは大いに有益であるとし、国際関係言語を再構築するために哲学は比類なき役割をはたすことだと、その使命を強調する。

ジャック・デリダ「諸々の国際機関がどんなに不完全であろうとも、その評議と決議は、構成員である主権国家、またそうして憲章に署名してきた主権国家によって、尊重されるべきです。たった今、こうした参加に関して、いくつかの「西洋」国家が深刻な失敗をしたことに言及しました。この失敗は少なくともふたつの種類の原因から生じています。
第一には、その失敗は、こうした法システムの公理と原理の構造そのものに、そして公理や原理が制度化された姿である憲章や協定の構造そのものに関係しているでしょう。したがって、省察(私が「脱構築」タイプ)と呼ぶ省察)は公理や原理を問い、創設し直さなくてはなりません。その作業が必然的に出くわさざるをえないアポリアに意気阻喪することなく、公理や原理を終わりなく磨き上げ普遍化しなくてはなりません。
ですが、第二に、その失敗を、アメリカ合衆国イスラエル(米国に支えられているのですが)ほど強力な国家が犯した場合、いかなる阻止的な制裁の対象にもならないという問題があります。国際連合はそうした制裁の力と手段のどちらも持っていません。ですから、国際機関の現行の失敗が新たな組織によってしっかりと実際に罰せられるように、そして本当のことを言えば、前もって予防されるようにするために、可能なあらゆることをする必要があります。(これはとても長期にわたる、大変ですが絶対に必要な任務です。)それが意味するのは、国連(その構造と憲章が修正された―私はここでとくに安全保障理事会のことを考えてます─暁にある国連)のような制度が、実効的な介入力を持つ権限を有さなくてはならず、つまりその決定を実施するのに、裕福で力が強い国民国家潜在的にしろ覇権的な国民国家にもはや依存しなくてもよいのでなくてはならない、ということです。覇権的な国民国家というのものは、みずからの力と利害に従って法を曲げるものですから。ときには、まったくシニカルな仕方で。
今、私が略述している自律的な力を有した国際的な法機関や裁判所という地平が、一見ユートピア的な性格を持っていることは承知しています。私は、法が倫理や政治やその他すべての領域における最終的な切り札だと言っているのではありません。また、力と法のこうした一致(カントが見事に説明したように、この一致は法の概念そのものによって要請されます)は、ユートピア的であるばかりではなくアポリア的でもあります(何故なら、この一致が合意するのは、国民国家の主権を越えながらも、さらには実は民主的な主権を越えながらも─主権がもつ存在-神-論的基盤は脱構築されねばなりません─、それにもかかわらず、普遍的な主権についての、実効あるい自律的な力の権限を有した絶対的な法についての、必ずしも国家的でない新しい形象を私たちは再構築していかなくてはならないからです。)。ですが、私たちのあらゆる決断を導くべきは、この不可能の可能性を信じることであり、実は、知や学や良心の視座からは決定不可能性(決断不可能性)な事柄の可能性を信じることなのだ、と私は信じます。」

*1:但し、この寛容には、日本語で語彙に包摂されている、見守る的な積極性ではなく、「認知・許容はする」「耐えうる」的意味

*2:特殊/普遍啓蒙と自己同一性保持/進化革新に揺れるヨーロッパの二律背反性を考察した『他の岬―ヨーロッパと民主主義』で「それ(尖端の岬=キャップであるヨーロッパ)が自己自身に関係するのは、もはやたんに自己自身との=自己自身にあっての差異の内で、他のキャップとの、キャップの他の縁との差異の内で、おのれを結集することによってではなく、もはやおのれを結集することもできずに開かれることによってである。」とヨーロッパ的普遍の名のもとに、マイノリティな非ヨーロッパ特殊性をも積極的に尊重することとして「歓待」を主張。