言語の文化性

「日本語の論理性」っていわれると、そもそも「論理とはなにか?」って根源的なナゾが出てはくるのだけど、…そんな深遠で高尚なこたぁ「論理学」におまかせするとしてぇ(早くも逃げ腰?)、ワタクシが想定してるのは「認識〜行動に到る間=思考に存在する道筋・脈絡・構造」という意味合いでの「論理」である。
「日本語(記述習慣)に論理性はあるやなしや」とゆーのは、それは「言語」と「普遍性」をどう解釈するかによって違ってくると思う。独/仏/英のローコンテキストなメジャー欧米語にくらべて日本語がローカルに文脈依存しまくったハイコンテキスト言語ゆえ、論理科学的普遍性がのりにくいという説は割とあちこちで良く聞く。
「解りあえない」を前提とするか「解りあえる」を前提とするかによって、共通項を予め共有しているか否かという文化の差は大きい。んぢゃあそんなに日本語って閉じてんのか?っておもえど、そーいや日本語の「論理」を背負ってる厳格な部分って、漢字=漢文なんだよね。その厳格な意味を表している漢字をぺったんぺったんと繋ぎ合わせる膠着語。その漢字と漢字の語句をつないでくさまは「連歌」。そして特に曖昧表現になるのは、特に文末を背負った訓読みの大和言葉ってところなのかな。

話法

id:hizzz:20040904#p1でもカキコしてんだけど、id:kmiura:20040827でカキコした「〈個〉のスタンスの幅の取り方が、縦(=唯一の我)か、横(=われわれの中の我)か」が、言語とそれを使用する者とのアイデンティティのスタンスの違いが一番大きく関係してくるものだと考えた。
そしてそれは、思考道具としての言語使用の目的意識の違いに顕著に現れる。唯一の我でローコンテキストが好まれるという文化習慣は、「我考えるゆえに我有り」でプロセスを含めた思考を他者に出し比べてそれをもって発想そのものの普遍性コミュニケーションで繋がるのではないか。それに比べて、ハイコンテキストな村的セクト的文化習慣にはまっていると、任意共有された思考結果バリエーションでもって他者と比べて我を認証してもらうという個別人格コミュニケーションが目的となっていることが多いのではないだろうか。
「プロセスを含めた思考」を語ろうとすれば「認識〜行動に到る間=思考に存在する道筋・脈絡・構造」ということが述べられなければならないし、「思考結果」で会話目的を達成できうるならば、若者の「キモい」「うぜぇ」「たりぃ」「かあい〜」とか、2chの「おまえモナー」とか、id:kmiuraさんがお書きになられてる「姉妹型」会話とかで、ちょ〜OKなんである。

自己主張

そゆ村的お作法が身体化していると、マイノリティの違いを見て「ぱど厨」のような「いじめ」コンフリクトはおこりがちだし、ど〜んな内容をいったとて、論争=人格批判になるわ、論争そのものの内容よりも論争の土俵に上がる為のお手続きの前提が大問題となる。匿名性を毛嫌いして氏名/性別/年齢/職業経歴を明らかにせい=どのハイコンテキストの序列のどこいら辺で認知されてる者か?をさぐるのが、コミュニケーション解読手段の第一義となる。「素人が安易な批判をするな」というのも、そのような意識が前提としてあるから、「素人」という意見者への人格評価づけが、内容の吟味よりも優位理論となるのである。
その意識が強いと話法として論理を駆使してても、id:hizzz:20040911#p3の方法論的動機が自己=〈個〉にないままで、論理立脚によるアイデンティティを得るのが目的となっている「オレを認めろ」=淋しいオレ様という状態になる。中年以降になると「指示語」が多くなったり、ね(^^;。会話動機自体がそんなだから、ことさら呼応相手に謙譲の美徳を発揮して過重配慮する為(それが承認してるよという相手へのシグナル=陰喩作法となる)に「断定」をさける話法になる。なにを謙譲してるのかといえば、発話内容と〈個〉に隔たりをもうけて責任を避ける為だ。所謂「重たいハナシ」として敬遠されがちなのは「論理的内容」を含む。先に書いた通り、「我を認証してもらう」為には、初対面の相手に「重たいハナシ」をふっかけるのは「礼儀」に反する無礼行為と慣習的にされてきた。親しき仲といっても、満員電車でのふるまいのごとく、そうして他者への領海侵犯を微妙に避け存在を消しつつ、自発的に消したからこそ自己存在を他者依存で立ち位置をキープするそれを保持すること=互譲性コミュニケーションによる繋がりが、他者との会話の第二の目的となる。
第一に「謙譲」して相手のことを全面的に受け入れることで自己を消す、第二に消した自己を先に「謙譲」というカタチで承認した相手に自己を受け入れてもらう。こういう双方向の流れがあってはじめて、相互承認の互譲性コミュニケーションは、互いの(言葉になっていない)真の意図を達成する。
しかし腹のさぐりあいのシンドイ話法に同調しつづけるのも大変で、うっかりコードをはずれたり、はずされたり(いじめ)してしまう疑心暗鬼な地雷状態に耐えられず、かといって「唯一の我」になっては、淋しすぎてコジレてしまうこともある。
そぉんなことに最強の日本語話法は、「官僚答弁」だったりする(苦笑)。アレは確かに「オレを認めろ」アイデンティティはないが自己の意見もない。ひたすら属するハイコンテキストの意見だけがある。そのハイコンテキストの意見と自己をびったり同調させつつ、絶対しっぽをつかませないような立ち位置バリアでくるんでるトコが、いかに波風たてずに文意を納得させるか、一番やっかいな人格批判を退けるのに最強なんである。

論理言語外思考

論理言語を持たない人間は思考や論理ナイのかといえば、そんなことはない。アカデミックな学問がすべからく言語思考記述を普遍としその訓練が学問基礎となってるから、それを習得してない者が非論理的にみえるという違いではないだろうか。
しかし学問体系でもスポーツや芸術といった実技色濃い分野は、学問としては論理が言語記述されてはいるが、そういった分野は論理を示すことがその実技の目的ではない。例えば全ての芸術家が自己の行為過程を、黄金比やマンセル番号による色調計算を使って製作してるとは思えない。そういのは「直感」という感覚で思考ではないという説が一般的であるが、はたしてそうなんだろうか。
ある感覚がひらめいたとて、その感覚をなにがしかの認識&行動基準におとし実行する為には、それなりの論理思考が働いているだろう。こないだのオリンピックなど見ていると、スポーツで昔ながらの「根性」理念体育会系主義では、0.00を争う世界ではいまや成果を出せない。最近のスポーツトレーニングには機能重視したコーチングがかなり取り入れられている。(日本選手の明暗が別れたところに、日本人ウケするナニワ節的主張の強いトコ(長嶋ジャパンレスリング父娘等)が総じていまいちの結果であったというのは、興味深い現象だった。)文学/芸術でも「激情のおもむくままに…」的常套句がるが、実際問題、作者が感情におぼれてたら演奏出来ないし、作品に纏まらないであろう。芸術/スポーツにかぎらず、所謂、プロという人たちは、当人が論理言語を駆使するしないにかかわらず、そうした実務作業工程において何らかの論理構築をなしとげてるからこそ、手掛けるコトやモノが一定の水準を保ち、それが故に評価物となるのではないか。じつは、そういう言語思考しない思考方法のほうが、一般的ではないだろうか。

思考のやり方

しかしこれは発想と思考は別だというハナシになるのかもしれない。発想から思考というプロセスをとおして言語なりなんなり表現の具現化を行う=方法論としての思考という捉え方をすれば、思考のカタチそれ自体も自由にデザインされてしかるべきものなんじゃないかな。したから「正しい論理=思考過程」を模索する論理学という学問の在り方は理解できはするんだけど、それを唱える方々とワタクシとはちょー相性?悪いな〜っと。正しい論理は唯一の正しい著述でなけれはならない=唯一解答が自明的カキコ見ると、そおかぁ〜?っていつもハゲシク腑に落ちない。
正しいひとつなトコに複数解を見いだすことに思考の面白さを感じてるワタクシは、普通の本を読んでも哲学とか論理とか科学とか厳格言語なものでも、このようにネットに書くとか喋ったりしない限り言語は使わない。特に門外漢な分野の時(ってほとんどがそうなんだけど)は個々の語彙を拾って繋げるよりも、ばっと全体絵を見ようとするかな?ジャングルといわれれば他者にとってはこの上もなくジャングルだろーなぁ。まー、したから、普遍性ないドアホウな認知理解の仕方/記述をしてるということは往々にある。<自己弁護(^^;;;
え?そんなデタラメは「(正しい)思考」とはいわない?ハイハイハイ解釈の自由、見解の相違ざんす。
それでアタクシは既存認知の追随を目的とするんぢゃあなくって、自己アイデンティティの他者承認を求めるってことでもなくって、そゆ言葉にならないでぐ〜るぐるしてるイメジを言語化方法でもってこうして表に出してみて、どうワタクシの発想や思考が変わっていくか変わらない部分と共にヲチャしてみる、とゆーのがカキコしてる動機になるかな。

哲学の2大潮流

大陸系は科学的でないというid:Ririkaさんのハナシである。「我考えるゆえに我有り」は実存主義で最後になった?から冒頭にカキコした言語の文化性もゆらいて、その結果「現代思想」著述はなんでもアリ状態となり、従来の神学論争的世界から自由になれども、今度はカルスタ/ポスコロのハテのタコ壷でちりじりになってしまったのではないだろうか。そしてそれでは流石にヤバいと、デリダとハーバマスがそれぞれの論説理念構造そのものではなく、「政治的責任(ヨーロッパ的アイデンティティ)を規定する」という実践へむけてのプロトコルに於いて合意して、共同声明を出せた。その反帝国主義の中心には発展/拡大を志向する自己文明への懐疑があって、それが思考理念としての「反科学」になるのではないかな。しかし理念に拠る全てをコントロールする人間本質主義が根幹にあるみたいだからなぁ。そゆ経過はとても興味深い。2人の共同声明も、ヨーロッパ中心主義(帝国主義)の離脱をいいつつ世界規模の内政を企むという、平均台でのアクロバット体操のような妙技なんだもん。
でそんな大陸系と分析系のガチンコは、理念から理論化するか、現象から理論化するかの方法論の差だろうが、お互いにとっては、そういう思考経過(演繹/帰納)を選択している基準価値観=思想が、人間行動の最上階に存在してしかるべきと考え続けた。論理学を踏襲して論理をふりまわすところの学問、哲学のそういうふるまいは、論理の価値は理念によって決まるというのは「宗教哲学」の時代からなんら変わりはないのぢゃあないかな。自分のアタマ内で整理つけばそれで実証もセットになってヒエラルキーを容易に構築できた単一論理な時代に比べて、様々な世界、科学的実証性も含めて多様性ということをどうその思想に加味して統一理論をつくるかということになると、思考方策として「初めに理念ありき」という仮定をたてアイデンティファイしてしまうことから始まるハイコンテクストな大陸系のその仮定そのものの科学的根拠は、門外漢にとっては????となり(理念はもっともコアなものだからそこに疑問をもつこと自体が正しくナイといわれんだけどさー、それって宗教そのものやんか)、以降いくら精緻な思索理論をかさねども、フィクションと化してしまうのだろう。
しかしそんなカントから続いてきた「哲学に拠る大文字政治」への意欲、そぉんな大風呂敷を掲げてくれる華やかな大陸系哲学は、ちまちました村政治/制度にからめ捕られてショボくれてる多くの日本人にとっては、現実的でガリガリのプラグマチックで地味な分析系よりゃ、とってもハデでデカイ夢=イリュージョンを見させてくれる存在なんだよなぁ。とはいっても、最近のゲノム科学や脳科学等の巨大データに導かれる人間の機能構造の驚異的な実証解明とその相互分析(データ・ドリブン科学)は、物質(ノンフィクション)より精神(フィクション)の優位性でもってして言いたい放題してきた大陸系思想に対して、有無をいわさないものもがでてきたからなぁ。したから、その精神存在価値の普遍方向としてよけい「大文字政治」を志向せざるを得ない、とか?ってことかな。。。