自己実現山脈

前回のつづき。
いやぁーしかし、90年代の自己実現/ACブームとかって、ホント、風化してるんだね。サブカルの死屍累々といえば、ぬぁんといっても、オウム真理教にとどめをさすんだけど、どうもその露払いが出来ていないようだ。こんなんだから、簡単に原理とかスピとかにハマる訳だ。>トホホな90年回帰

真正オタク

「オタクとは、あえて「なる」ものではない。「やめない」ことがオタクなのだ」とかってオタクを定義した岡田斗司夫は、90年代後半に一部メディアの俎上にあがってきた「オタク差別」について、下記のようにいっている。

だいたい二次元コンプレックスって何だよ。じゃあ小説のヒロインに憧れたら、そいつは一次元コンプレックスか?セル画の女の子に憧れたら二次元なら、美少女フィギュアが好きな奴は三次元コンプレックスなのかよ。
 マスコミが無責任にネーミングして喜ぶのは仕方がない。しかしそんなのにいちいち振り回されるなよな。オタクなんてのはイイ歳して怪獣だのアニメだの言ってんだから、人並みはずれて頭よくなきゃシャレになんねーぞ。

岡田斗司夫『オタクの迷い道』
#9 オタク差別?バカに差別されて何がツラいの?

http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/priodical/mayoimichi/TVBROS1.html

「オタク差別」をいいたてる『週刊金曜日』つーのが(大苦笑)しどころでもあるが、ま、それは後述。この岡田のオタク連載は『TVブロス』である。その当時のオタクメディアは、メジャーなものでも『ガロ』『ラジオライフ』『噂の真相』か、パソ通位しかない。後は古書店やプラモ屋やパーツ屋という各「現場」にマメに足を運んで先達の技を習得し、時には「やるな」とガンコな店番をうならせて情報収集する爽快感、そういうエクスタシーこそが、オタクの醍醐味であり、そこに全アイデンティティをかけて道を極めようとして、全てを網羅し尽くさんと重箱のスミは無論、裏や関連を含めて濃いとこに向かうのが、オタクと言われる所以なのだ。そうして、その偏向しまくったオタクライフを日常世間でまっとうするにはどうしたら良いかを全力で考え実行してる人々、ワタクシはこれを真正オタクとする。

サブカルオタク

さて、『TVブロス』は、F1層向けのメジャー番組は特集しないものの、あくまでもTVというメジャー媒体の中でのコアでマイナーな情報を扱っており、いってみればそれはサブカルであり、オタク雑誌ではない。しかしそこにライブハウス・ロフトプラスワンの超Z級映画や鬼畜系緊縛イベント告知され、濃いオタク達とサブカルなブロス君が大爆笑しつつダメダメ映像を楽しむ機会がやってくる。また、東大教養学部では「オタク文化論」ゼミが始まり、アカデミック分野にも進出を果す*1ワンフェスコミケといったイベントも次第にメジャーとなり、そのような各オタクイベントに参加することがオタク活動となってきたひと、ワタクシはこれを前者と区別する為にサブカルオタクとする。
このひとたちは、元はブロス的なメジャー文化の重箱隅乗りが高じてオタッキーとなったり、またその自分の得意ジャンルが自己の状況により変化することもあり、そういう意味ではサブカル趣味的行動に近い、サブカルとオタクの境界例ともいえるのであろう。そうして、真正オタク道に突き進むよりも、こうしたライトな感覚にとどまるオタクが増えてきた。>サブカルの変遷id:hizzz:20040109

*1:これが日本のカルスタの大素地であることには違いがないと思うのだが、社会学問の西洋コンプレックスの現れか、ひたすらイギリスのニューレフトの流れをくんでないと無視した学問になってるつーのは、ポスコロ的に見ていかがなものか、と小一時間。。。

コミュニケーション弱者

以前、還る場所id:hizzz:20031027 でカキコしたのだが、80年代サブカルは、乗り越えることをあきらめて別の自分たちの世界をこさえて分散化/多様性ということで乗り越えたこと=ポストモダンにしたんだけど、結局、近代以前のソレは歴然として未解決のままにある。それが、前回のカキコしたとおり「自己承認欲求」な主体の確立問題というベタな青春。
最近ではそれが「非モテ=コミュニケーション弱者を差別するのか」という風な「正論PC(political correctness)」書込がネット上でなされて、ワタクシはおもわず『週刊金曜日』か?と爆笑してしまう始末。その『週刊金曜日』は、かっての左翼学生の愛読雑誌『朝日ジャーナル』が、サヨク化筑紫サブカル放蕩して消えてったのの流れを汲んでか汲まないでかで、発刊。
前回もカキコしたように、そもそも恋愛自体が差別的行動であるから、自己を「弱者」という絶対的政治地位に見立てるのであるならば、「自他共に、すべての求愛行動を断固拒否する」という帰結ならば、「コミュニケーション弱者」という自己問題提起は解消されうる。他者も、「コミュニケーション弱者として差別はしてない故に、一個人として恋愛関係結ぶ気がしない」ときっぱりと断りを入れることが出来る。
ところが、このPCを言い立てる者は「弱者」という集団マスに拠る「自己承認」という所に最も重きを置いてしまうから、とりあえず「非モテ」というよるべない現状をそれで回避したとしても、自己保守的なアイデンティティ集団行動をとっているかぎり、相思相愛という恋愛成就は永遠にかなわないことになる。
また、仮にその「弱者」主張を受入れた者がいたとしても、対等でない逆抑圧を強く感じることとなる。

ネタをベタとして消費する者

先の岡田の連載では、どこかしらそうした自己や同類をネタにして面白がる芸が、芸として成立してるからこそ、サブカル誌の中で、いちサブカルジャンルとしてのオタクが成立したのである。最近の、真実の愛を求め俺達は二次元に旅立った『電波男』にしても、本田透インタビューhttp://media.excite.co.jp/book/interview/200503/を読むかぎりにおいては、かなりの書き直しを行っている。ルサンチをまき散らしたキモオタク芸人といったら宅八郎なんだけど、最近はナニしてるのかとおもったら、バンドに加えてホストやってる模様。http://hw001.gate01.com/takuhachiro/ いやぁ〜人生いろいろだ。
…とゆー例をだすと、あいつらは勝ち組でというルサンチなんだろうな。いやだからねぇ、そゆ勝ち負けというベタに自己を落し込んで身体化しきれなくてコジレてそこでループしてるのなら、ココロ系もしくはコジレ系。それならサブカルにいっぱいいるね。
オタクは趣味で常に自己実現してるのであって、そこに勝負をいうのなら、趣味世界スキルの濃度があるだけである。ならば、そこに「オタク=非モテ」という価値で何故、コジレなければならないのか?という疑問がでてくる。
とどのつまり、オタクであることにも自己アイデンティティを確立することが出来ない、どっちつかずな薄いひと程、世間と偏向世界との数多の選択肢の狭間でゆれうごくからこそ、なにか強烈なall or nothingに身をゆだねようとする、決定できない者ということではないのか。
ま、人生先は長いですから、健康の為にも、目先の楽ばかりを追いかけて早々に人生を断定してしまうのは、程々にしておいたほうが後々の為になるんすよ。

非モテの私さがし

自己が常に実現されてないと、日々感じている者だからこそ「(自分がリスペクトしない)バカ(=F1層女子)に差別されて、ツラい」という現象が身にしみる*1。または「純愛/純潔」に飛び付く。
自分がリスペクトしないバカなんかに恋愛感情はそもそも湧かないのが普通であろう。なのにこの人々は、それがF1層=最も人気ある=モテる者である故に、自分もつきあう「権利」を行使して初めて、自己実現が成るという思考なのであろう*2。「愛してさえくれれば、愛することが出来る」と言う条件付、そゆあくまでも自己に拘る愛を、愛の最優先にする行為を、自己愛という。
こゆ者のいう「愛」とは、相思相愛とは遠い「憧憬」と「愛玩」の組合わせ。前に上げた「非モテ=コミュニケーション弱者を差別するのか」という大風呂敷も、要は「弱者だから、ひたすら愛玩してくれ」という要求である。ま、したから「アタシ、あんたのママぢゃない」と言われておしまいなのである。
「愛」自体の設定がズレているのである。前回の「話しを聞く」という忠告も、そもそも自己同一志向者以外の同性異性とりまぜた他者異者との話しを聞く関係=友人/知人関係を構築出来ない者が、それをすっとばして人間の一番コアな恋愛関係に急性になって「おいしいトコどり」をしようとするのに、かぎりなく無理があるのだ。

*1:非モテでコジレる要因には、「不幸の先取り」という特有行動がありはしないか。なぜそんなことになるのかといえば、現状を自己肯定しようとするあまり、将来変化するかもしれない自己と自己をとりまく環境の可能性を、不安要因として全てオミットしてしまうからだろう。

*2:セクシュアリティの一致は、恋愛において一番重要なことであるのにも関らず、それでもどーしても関係を持ちたいというのなら、恋愛以外の方法を全力で構築してくよりほかはない。そして実はそれは相思相愛なはかないものより、はるかに自己自由度が高くラクだったりするのである。

ヲヤヂ

ところが、その無理をシステムとして先に構築した輩がいるんだよなー。「自己を確立する」という近代プロセスふっとばしたのは、永遠の12歳id:hizzz:20031128でカキコしたとおり、サブカル&オタクだけではない。それが、ヲヤヂ世界である。ヲヤヂもそんな自己承認とエロ処理に困って、家庭のママと職場のママとプロのママとに分散統治した。
「自己を確立する」という近代プロセスをとばした上に相思相愛な「恋愛」はそもそも可能なのか?という疑問がでてくる。これについては、予期せぬ妊娠で男が悩むというカタチを通して斎藤美奈子『妊娠小説』が近現代小説のウィタ・セクスアリスを検証してくれてる(笑)。

情愛

なにしろ私小説の醍醐味といえば、主体というものの獲得に失敗しつづける快楽だったりするから、尚更始末わるい。そゆとこでは、西欧的〈男〉〈女〉の対峙するエロスというのは、遠い。ぢゃ、「恋愛」でなくてナニがあるのか、、、といえば、「情愛」ではないだろうか。
よろめき、なさけをかける、ほだされる…「情愛」こそ、男女関係と称して最も盛んに執行われているものである。実はホントは誰も「恋愛」なんか欲してなく、ひたすら「情」とそれによるヒエラルキー構造による連帯を求めてるんぢゃあないだろうか?相対的で個を常に問い問われ続ける「恋愛」よりも、その情ヒエラルキー構造のどこかに位置してゆるぎない安心感。それをもってして自己実現とする。そのヒエラルキーの最上には「純愛」論理をもって統合する。
さて、オタクの「コミュニケーション弱者を愛玩しろ」なハァ?理屈もこの「情愛」理論の「憧憬-愛玩」ヒエラルキーなら、うまく収まるんだよなー。うへぇ。>理想のカタチid:hizzz:20040524