普遍と特殊のアポリア

「ヨーロッパ」の対置語は「オリエント」なんだけど、歴史的にはオスマン帝国の影響を受けて、非オスマン帝国な自己を「ヨーロッパ」と規定してその構図をひっくり返そうとした始まりがヨーロッパ帝国文化ってハナシで、そゆ裏返しみたいなことが延々と。。。てなことで、前回id:hizzz:20090204の「裏返し」

ホロコーストの記憶とディアスボラ・アイデンティティ

前回書いたとおり、ドイツは加害者の「過ぎ去らない過去」を負から正のアイデンティティに変えて体制化していったように、イスラエルも又、ホロコースト被害者たる過去価値を変容させて受け止めようとした。
当初シオニズム主流派のイデオロギーは、ヨーロッパのユダヤ人が無抵抗のまま強制収容所に送られガス室入りしたことを、弱く臆病で常に受け身でしか行動しない「ゲットー・メンタリティ」と見下した。イスラエルに逃れてきた生存者は、当地生まれの若者達に臆病者・意気地無しという意味を込めて「サボン(ガス室行きにカモフラージュとして配布された「石鹸」)」と揶揄された。ほかの地域に逃れていった人々も、場合によってはドイツやポーランド風の名前を替え腕の入れ墨も消し、または映画『アンネの日記』の主役オファーを断ったアンネ・フランクと同年代のオードリー・ヘップバーンのように、多くの体験当時者は自らの忌わしい経験について沈黙を守っていた。>ウィリアム・スタイロンソフィーの選択』など
しかしそれが好転するきっかけは、逃亡・潜伏していたアルゼンチンから連行されてエルサレムで行われた元ナチ親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンの裁判だった。裁判で明らかにされた国家保安本部で「ユダヤ人問題の最終解決策」とした「ユダヤ人殲滅」の実状が、数々の証拠・証言と共に報道され、それへの「罪」と「裁き」は、ハンナ・アーレントイェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』によれば、シオニズムイデオロギーを語りユダヤ人意識を強化する教訓を伝える舞台としての役割を担ったという。ディアスボラ(離散)・ユダヤ人は、イスラエル建国によって初めて、ユダヤ人が「羊のように無抵抗で殺される」ことなく防衛のためには反撃する民族になったという論理立てでもって、負を正にしたユダヤ民族史の歴史認識への国民合意に至ったのである。
「教科書で扱われるホロコースト強制収容所の話は、そうした苦しみの中にあっても自分を犠牲にしてまで何とかほかの人を助けようとする勇気ある子供たちの「英雄物語」とセットで登場する」と興味深い観察をする立山良司は、イスラエルのこうしたホロコーストアイデンティティを端的に指摘する。

イスラエル社会科学者S・N・アイゼンシュタットによると、ホロコーストは二つのメカニズムを通じて、シオニズムおよびイスラエルという国家に正当性を提供している。多数の無力なユダヤ人が殺戮されたという事実は、ユダヤ人が拠点となり、かつホロコースト生存者を保護する場所として自分たちの国をもつべきだというシオニズムの基本的な前提を正当化する。他方で、1943年に起きたナチスに対するワルシャワ・ゲットーでの武装蜂起のようなホロコーストにおける英雄的な行為は、シオニズムあるいはイスラエル建国後のヒロイズムの前史と見なされ、それによってシオニズムユダヤ人の過去と歴史上の連続性を獲得したという。
このように見るならば、ホロコースト記念日の正式名称が「ホロコーストの殉教者、および英雄を記念する日」であるように、ホロコーストの悲劇とそれにかかわる英雄物語はつねにセットで提示されなければならないのである。

立山良司『揺れるユダヤ人国家―ポスト・シオニズム

しかしそれが、ほかの民族との関係において、自己アイデンティティを確認すればする程に、「ユダヤ人を守るためには何をしても構わない」「占領地からの撤退を阻止するためであれば非ユダヤ人に対するテロ行為も許される」大イスラエル主義ともいえるユダヤ/非ユダヤという二項対立的世界観の重ね合わせな「エレツ・イスラエルイスラエルの地)」絶対観に、いとも容易に結びついてしまう。そのような自責ドイツ人と自虐ユダヤ人というように、国家・国民・民族概念を意識・身体化してアイデンティファイすれば同時に持たざるを得ない「過ぎ去らない過去」=「原罪」的起点については、ミヒャエル・ヴォルフゾーンが以下のように切りこむ。

極論すれば、ドイツ人の未来に対して、ユダヤ人の歴史からある種のアナロジーが導き出されよう。政治的機械主義の経過と効果を特徴的に示すアナロジーである。すなわち、ユダヤ人が二千年にわたってキリスト殺しの烙印を押されてきたように、ホロコーストつまりユダヤ人殺しは何世紀にもわたってドイツ人を拘束するであろう。
キリスト殺しとホロコーストいずれの場合も、同時代の人びとに「集団の罪」はなかったし、後の世代には個人的にも集団的にも罪はない。だが、いずれの場合にもカインのしるしは、過去、現在、未来の世代に代々引き継がれる道具であり、論拠でありつづける。後の世代は、政治の領域でパヴロフの犬のように反応するのである。ユダヤ人に関して言えば、条件反射として出てくるのは「キリスト殺し」という言葉であり、ドイツ人に関しては―長く変わることはないだろうが―アウシュヴィッツである。

ミヒャエル・ヴォルフゾーン『ホロコーストの罪と罰―ドイツ・イスラエル関係史

そしてヨーロッパ・ドイツからイスラエルに引きつがれてしまったそんな「カインのしるし」=負の連鎖については、以下のように指摘する。

ユダヤ人はユダヤ教と切り離されてしまった自分のアイデンティティを民族の歴史を通じてふたたびユダヤ化するために、ホロコーストにしがみつかねばならない。そのために彼らは、とりわけホロコーストというカインのしるしのついたドイツを必要とするのである。
ドイツがユダヤ人に縛られているのと同様に、ユダヤ人もドイツに縛りつけられている。

アラブ中東世界を共約不能な絶対的他者と表象する諸言説を積み重ねて、ヨーロッパは遂行的にアラブ中東世界を未開の地オリエントとして劣位化することで、ようやっと自らを比類なき光輝く文明の地ヨーロッパとして自律主体→普遍化する。が、その近代ヨーロッパ世界と遭遇することによってアラブ中東世界、とりわけ知識人は、近代ヨーロッパ文化や価値観に同化し、近代的知識人として自己形成していく一方で、自らをヨーロッパの異質な他者として発見していくことにもなる。

パレスチナ人とは、シオニズムというナショナル・イデオロギーに支えられたイスラエルのナショナル・ヒストリーの犠牲者であった。「ユダヤ人」の「人種的他者」として「アラブ人」という「敵」を同定し、彼らをパレスチナから徹底的に排除することによって、パレスチナに対して超歴史的な権利を有する。「ユダヤ人」という主役を立ち上げるシオニズム史観において、祖国を剥奪され難民となって離散と流浪を強いられるパレスチナ人の悲劇は居場所をもたない。パレスチナ人の人間解放とは、このイスラエルのナショナル・ヒストリーにおいて抑圧され、否定される「パレスチナ人」の記憶を「歴史」のなかにいかに回復するかに賭けられている。

岡真理『アラブ、祈りとしての文学

とはいえ、「国際社会」と渡り合うためにヨーロッパ的近・現代的価値観を身につけたパレスチナ解放をめざす武装パレスチナ人が、反イスラエルを主張してヨーロッパ〜ユダヤの過去をなぞってしまうような事態になってしまっては、あまりにも知恵がない。

ヨーロッパとアラブ、差異のイデオロギー

米国籍パレスチナキリスト教徒であり、イスラエル/パレスチナ二国家分割案の創始者の一人として10年以上パレスチナ国民評議会(PNC)の議員としてパレスチナ解放運動を担っていたエドワード・サイードは、イスラエル国家が行ったユダヤ人の意味づけ=ユダヤ性なる他のあらゆる国家と異なる特殊性からくる「ユダヤ人か非ユダヤ人か」という差異こそが決定的な重要性をもつと認識し、それを「差異のイデオロギー」と称した。そうした「イデオロギー」は、もっぱらリベラル左派シオニストによって担われており、「イスラエルユダヤ人とパレスチナの非ユダヤ人とのあいだの紛争は、決して論理的・哲学的な用語で議論がなされたことがない。」という。また上記で引用したような「原罪」的アイデンティファイ=「カインのしるし」的なヨーロッパ出自政治に巻き込まれて語られる文脈でしか認知されないアラブの困惑を記す。

おそらく、パレスチニアリズムの詳細かつ公正な政治的分析を妨げている最も深刻な心理障壁は、ホロコーストの感情的重圧であろう。それが誰の政治的権利も妨げない限り、とりわけ完全にヨーロッパの共謀であった出来事とまったく無関係の人々の政治的権利を妨げない限り、あらゆる文明人が当然のごとくこの重圧に屈伏するに違いない。すべての西洋人があのおぞましい歴史の一節に対して(明らかに)感じている─または感じているふりをするよう駆り立てられている─罪悪感や恥辱のようなものを、アラブ人がいっさい何も感じていないという事実は、いくら強調しても強調し足りないように思える。したがって、パレスチナのアラブ人にとって、「ユダヤ人」をイスラエルとその支援国に結びつけて語ることや、イスラエルによる占領とドイツによる占領とを対比させることはタブーでない。(ユダヤ人受難の一方的報道をする)ジャーナリズムに対して激しい非難を浴びせることもまた同様である。

エドワード・サイード収奪のポリティックス

その「差異」への無頓着さは、親ユダヤ主義・フォロワーといった連中だけでなく、「自身とその窮境を自己流に把握しているにすぎない」パレスチナ自体の孤立と、たもとを分かった後にアラファトの批判者となっていくなかで、ハマスイスラム聖戦といった原理主義者達にも批判の目をむける。「『武装闘争』といった陳腐なスローガンの使用に対して、また政治的にパレスチナ大義を推進することなく、ただ無辜の人々に死をもたらすたけの革命的冒険主義に対して、わたしはきわめて批判的であった」『遠い場所の記憶 自伝

ハマスの力が異様に誇張されているのは、西洋の政策とジャーナリストの論評を強く支持する「イスラームの脅威」熱のせいたと私は強く確信している。確かに彼らは西岸地区やガザ地区の人々を集めて「ほとんど効果がない」デモやストライキを行ったり、少人数を動員してイスラエル兵士を襲撃したりはできる。だが、結局、彼らの主張はイスラエルの占領の抵抗であり、指導者が特に際立っているとか印象的だとかいうことはない。彼らが書くものと言えば、かってのナショナリズムのパンフレットを「イスラーム風の」言い回しを使って焼き直したものだ。何と言っても最悪なのは、彼らが引き起こす「脅威」なるものが、イスラエルPLOアメリカの政策担当者の取引材料となり、それがパレスチナの人々にさらに譲歩を迫り、イスラエルに有利な協定ができあがってしまうことだ。

さらに「右/左翼」党派政治の延長戦というヨーロッパ的身勝手なアラブ・パレスチナ支援といった、反イスラエル・フォロワーにもある根源的なものだと、容赦なく彼は指摘する。

パレスチナ人の孤立とは、何よりもまず向かうべき方向を見失ったことであった。いまになってみるとそう思えてくる。前々から社会的な地位をもたない「難民」だった者が、1967年以降、難民にとしての地位以外は何も失うもののない政治化された意識となったのだ。その地位はたいした所有物ではないし、現在のところその手にある政治的所有物は唯一それだけだ。…かって、アラブ人もイスラエル人も、それ以外の世界も、誰一人としてパレスチナ人の窮境を完全に把握していないことを知って、パレスチナ人全体が怒り狂った。だがパレスチナ解放人民戦線PFLPファタハのような組織、さらにはベイルートパレスチナ研究所のような独立した組織さえも、自身とその窮境を自己流に把握しているにすぎないのだ。
パレスチナ運動の意味をより詳しく論じる前に、パレスチナ問題に外部から共感を寄せる二種類の人々について完結に述べておいたほうがよいだろう。第一の人々は、いわゆる現実的な観点をもつ、一部のシオニストと多数の非シオニストだ。この観点には、悲劇という言葉がうんざりするほど頻繁に登場する。その言い分はこうだ。ユダヤ人が、苦心の末獲得したものに対して紛れもない権利を有する一方で、ヨーロッパの反ユダヤ主義に何ら加担しなかった150万人のアラブ人が、この大事業の犠牲にならなければならなかったのは悲劇である。これが悲劇の実態なのだが、人生は続いていかなければならない。いまこそ理性と交渉が打ち勝つ時である、と。この論の厄介な部分は、四大国による調停と同様、きわめて非西洋的な政治状況に対して、西洋的な美的規範を押し付けている点にある。別の話題でのヤスパースの率直な言葉を借りれば、悲劇という呼び名では足りないのだ。
もし悲劇が存在したのだとしたら、それは、セム族が西洋の手で苦しめられるうちに共有してきた過去のなかにある。すなわち第二次世界大戦時のユダヤ人や西洋に支援されたシオニズムの力によって追い立てられたパレスチナのアラブ人のことである。しかしながらパレスチナの現実は残存している。そこで必要とされているのは、悲劇を受け入れることではなく行動なのである。

パレスチナ解放運動が提起した批判は「強制的な分離や不平等な特権に依拠するものではない、知識や共存や正義といったものをつくりだす実質的な必要」が前提であったため、それに対するシオニズム側の反動は「ユダヤ人と非ユダヤ人の分離の実行が、分離そのものを目的としてものごとを強制的に分離するような認識論的枠組に基づいてなされた、複合的なイデオロギー形成と結びつくようになった」と、指摘する。

もう一種類の人々とは国際的急進派左翼のことだ。その共感を受け取りたいと望みながらも、パレスチナ人たちは─私も含めて─多くの懸念を示している。理由の一つは、左翼がはるか外部からイスラエルに反論を加えていることにある。必要とされているのは逆に、状況の内部からの調停案なのだ。イスラエルがもともと西洋植民地主義の産物であったと示すことはできたかもしれない。だがそうすることによって、イスラエル帝国主義のようなものが存在するという事実や、それがいまやすべてのパレスチナ人に対して西洋植民地主義以上に直接的な影響を与えているという事実が変わるわけではない。西洋植民地主義イスラエル人に手を貸したために(これはイスラエルを急速に持ち上げたが、長い目で見るとよいことはなかった)、彼らはパレスチナのアラブ住民に対して、いつも歴史的・政治的に冷淡で抑圧的な立場をとるようになり、同時に領土的主権のある地位を装った、妙にゆがんだ立場にとどまるようになった。いまパレスチナ人にとって問題なのは、イスラエルの存在がはらむ厄介な即時性であり、ヨーロッパやアメリカの植民地主義が内容する矛盾ではない。
西洋で発達した政治分析が、結局のところどのようにしたら非西洋にあてはまるのか、私にはまったくわからない。例えばアラブ人左翼と同様、イスラエル人左翼もまた存在し、両者はいまだ理論的根拠ではなく、より直接的なナショナリズム的根拠に基づいて対立している。私はこの問題に関して何の答も持ち合わせていない。だから、すべてのいわゆる国際主義的な概観─政治的なものにしろ、心理学的なものにしろ、美学的なものにしろ─が抱えている困難の一症例として、この問題を挙げている。最終的にいかなるパレスチナ人も、左翼に関して三つのことを忘れてはならない。第一に、パレスチナ分割案や、1948年の国連によるイスラエル建国の際に合衆国に賛同を示したのが、ロシアとその衛星国だったということ。第二に、近頃左翼が、イスラエルと戦うアラブ人を支持する反ユダヤ主義者(彼らこそが終わりなき苦難の元凶である)に加わったり、取って代わったりするさまに、気がかりな対称性があること。第三に、パレスチナの新たなイデオロギーが、西洋の左翼にほとんど何一つとして負っていないことだ。西洋の左翼については、若干の例外を除いて、人種主義、紛争、そして自らの国際主義(そのすべてもしくはいずれか)に関する、支配欲にまみれた懸念や軋轢で身動きがとれなくなっていたため、1967年の戦争でパレスチナ人に貢献できる部分はほとんどなかった。

あくまでも「左翼」はヨーロッパ産の国家という体制の内側の反体制という「差異のイデオロギー」しょっているのだから、非ヨーロッパ側からこのように批判されてもしょーがない。が、しかし、そうきっぱりも切って捨てることのできえないサイードのヨーロッパ/アラブの「差異のイデオロギー」をくぐり抜けてきた自身のボーダー的立場は、「差異のイデオロギー」の解を以下のように結ぶ。

もし、良心と良識が告げるものを人々に証言させることに少しでも成功できたなら、これまで理性や人間性によって制御されてこなかった差異のイデオロギーの力を緩和するために何かをしなければならない。
その唯一の方法は、イスラエル人とパレスチナ人の関係に典型的に示されている差異の問題をできる限り根本的に、徹底的に、そして多様なかたちで、把握、理解することだ。独自に連続性と完全性を備えた国家、社会として、イスラエルの歴史と事実を考慮しなければならない。急いで付け加えておくが、これがイスラエルパレスチナ人に行ったことをただ羅列するのではなく、それ以上のことを意味している。パレスチナ人が「イスラエルの奇蹟」に対する多くの称賛と歓呼の声に同意できないとしても、ユダヤ国家がユダヤ人自身に対して社会的、政治的、文化的に勝ち得た素晴らしい成果を評価するとはできる。
そして、イスラエル国家にまつわる強力で非常に切実な二つの見解を区別しなければならない。一方は、現在の構造と行為に対する無条件の同意であり、もう一つは、大部分のパレスチナ人が感じていることだが、現状の拒否である。双方の考え方を支配している差異のイデオロギーを実体化してしまうと、ここ約20年間、事実上停滞してきた状態をさらに引き延ばすことになるか、あるいは、敵対者のどちらかの滅亡を是認することになってしまう。しかし、より創造的な「差異」の意味を求めれば、この関係のなかに新しいダイナミクスが作りだされることを期待できるだろう。すなわち、ユダヤ人とパレスチナ・アラブ人の歴史的、文化的、物質的な差異は認めるが、どちらかの経験や現状に特権を与えることを拒否するならば、新しいダイナミクスが作りだされるだろう。選ぶべき道ははっきりとしている。困難なのは、それを世界中に理解してもらうことだ。この課題のためには、「支配」を伴わない「差異」という新しい理論から始めなければならない。

ヨーロッパの鏡像たるイスラエル

イスラエル=特殊としてのユダヤ教と、ヨーロッパ=普遍としてのカント主義の接点は、どこに見出されるのか。「ユダヤ教と、ドイツ哲学の本質としての観念論の歴史的頂点との親縁性、カントのいう契機との[普遍的法則の自律性、自由と義務といった]その基本概要を備えた、志聖性としてのカント主義との親縁性」をいうデリダは、コーエンがギリシャ哲学からキリスト教に通じるとされるロゴスにこの紐帯を求め、そしてコーエン自らがその役割を引き受けようとしていたことを指摘する。特殊であることにこそに威儀を見出しているのではなく、カント的普遍主義を経たうえでの「普遍性を備えた民族主義」。これが、ユダヤ人が伝統回帰ではなく、コスモポリタン進歩主義を持つユダヤ思想としてのシオニズムとなるという。
そんなライン上で、「文化シオニズムの大きな成果」とハンナ・アーレントが絶賛したヘブライ大学は、建国に先駆けて設立始動した。ヨーロッパの知・古典は、古代ヘブライ語を大幅にブラッシュアップして創作された「現代ヘブライ語」にのきなみ翻訳されていき、民族の「国語」文化の基盤となった。ナチから逃れるためにヨーロッパ・ユダヤ人はパレスチナに逃れ、ナチ的排外主義を否定するために文化シオニストらはヘブライ大学を設立し、普遍でリベラルな国家を目指したそのストーリィは、カント〜ドイツ観念論〜ナチズムの近代文化ラインと全く一緒なのはいうまでもない。
ヨーロッパの知識階級としても、同時代の国民国家国民意識を内面化していたユダヤ人は、自らのユダヤ民族意識を高めると同時に、反動としてヨーロッパの非ヨーロッパ反ユダヤ主義を育んでしまう。このような相関関係から生まれたシオニズム運動が、イスラエル建国とその軋轢に繋がる。

  1. 建国当初からイスラエルは一枚岩ではなく、複数の潮流が存在し、それが現在まで矛盾・対立を巻き起こして整理されていないこと。
  2. 1993年労働党政権イツハク・ラビン首相のイスラエル政府と、パレスチナ解放機構PLOが相互承認したパレスチナの暫定自治を段階的に進め、将来的には独立し二国家方式によって最終解決を図る方向性の確認「オスロ合意」(国連承認)が、今や殆ど破綻していること。
  3. 元来アラブ社会は、イスラームと政治行政単位はレイヤーの違う次元・アイデンティティに属している複合体であるのに、社会運営実体になじまない近代ヨーロッパ的1国民国家単位思想を、ヨーロッパと中心とした「国際社会」に持ち込まれ、他律的に「差異」をつけられたことが、周辺を含めた民族紛争を呼び起こしてしまうこと。
  4. 2006年パレスチナ評議会選挙での合法的「民意」結果、大勝したハマスとその党派主張「オスロ合意・イスラエル国家の否認」を、これまでPLOの中心であったファタハ政府に肩入れしてきた「オスロ合意」を基調とする国際社会が容認しないこと。

さっくり見てみれば、問題点はこの大きな4つにしぼられるのではないだろうか?
大体イスラエルは、憲法がいまだ制定されてない。なぜなら、憲法制定する為には国土と国民を規定しなければならなからだ。勝手に壁をこさえて領土ライン(といっても、現実にイスラエルの境に引かれているのは、「休戦ライン」)を引いてもそこに住まう人々にはそう簡単にラインは引けない。壁の内側に住んでいる非ユダヤな人々をどうするのか。「誰がユダヤ人か?」といったことはよく議論されているが、「誰がイスラエル国民か?」という問いに、当のシオニスト自身が答えを出しかねているからだ。>パレスチナ「分離」政策

重層的アラブ社会に持ち込まれた国民国家

一般的には「ユダヤ人対アラブ人」という対立図式でイスラエル/パレスチナ「紛争」が表象されるが、ユダヤ人とアラブ人は本来的に別個の実体としてぱっきり別れて対立してるのではなく、そこが元々アラブの土地でもあって、お互い共存して生きてきている限り「アラブ系ユダヤ人」「ユダヤ系アラブ人」という融合存在(ミズラヒーム)もまた出来ていたからだ。だからこそ、ヨーロッパ・ユダヤアシュケナージ)とアラブ・ユダヤ(ミズラヒーム)という文化・階層対立がイスラエル内部に勃発する。また、パレスチナ人というのも、そもそもPLO創立者たちはクウェートレバノンの住民で、西岸地区住民はヨルダン人、ガザ地区住民はエジプト人、そしてイスラエル住民としてカテゴライズされているのである。その他のアラブ世界、アフリカ、ラテンアメリカ、ヨーロッパ、北アメリカ(約20万人)に、約220万人が離散していると見積もられている。
「モザイク社会」と称される中東地域は元々「地域概念」が希薄であった。オスマン帝国下のミッレト(宗教共同体)は、さまざまな人間集団の政治的対立を吸収する機能を果たしていたが、それは納税を条件に多くの宗教共同体に大幅な内部自治を与える保護制度であった。前近代のイスラム世界における伝統的統治システムは、住民を宗教・宗派の枠組みのなかで間接的に支配することをめざし、そこでは、一定領域において排他的な支配権を行使する支配権を想定していなかった。

中東住民は、その第一義的帰属意識を宗教・宗派に置いていたとしても、言語、生まれ故郷など、その他の文化要素に帰属意識をもっていなかったかというと、決してそうではない。宗教・宗派は、いわば体制化された住民構成、住民意識の枠組みであって、意識の深層心理のなかに沈殿した中東住民の帰属意識構造は、さまざまに価値観を異にする人間集団の混在からなる中東の社会構造を反映して、宗教・宗派のほか、血縁、地域などに基づく複合的なものであった。そして、このことを端的に示すのが、「民族」を指すアラビア語の語彙の豊富さである。すなわち、アラビア語には「民族」あるいは「国家」と訳すことができる言葉として、血縁・民族的概念であるカウム(Qawm)、地縁的概念であるワタン(Watan)、宗教的概念であるウンマ−ミッラ(Umma-Milla)、政治組織・単位をさす概念であるダウラ(Dawla)、心理的・情緒的同胞意識を示すバラド(Balad)などがあるのである。
そしてこれらの言葉それぞれは、中東の住民が帰属意識をもっている文化要素を示しているが、こうした複合的要素から構成される中東住民の帰属意識構造は、しばしば、アイデンティティ複合として説明される。
極言するならば、中東の住民にとって、国民国家は自らを帰属させる多くの枠組みの一つでしまない、ということである。
そのため、19世紀末以降、オスマン帝国の解体にともなって伝統的イスラム統治システムが放棄され、中東イスラム世界が、そのほとんどが住民の意識と関係なく、近代の歴史の展開のなかで、それも多くはヨーロッパ列強の思惑から、人口的に設定された国境をもつ国民国家群へと再編された時、多くの政治・社会問題が生じることになったことは、容易に想像がつく。
中東の三大民族のうち、トルコ民族、イラン民族がそれぞれ1つの統一国家を建設したのに対して、アラブ民族は、統一国家建設の動きが一部みられたものの、結果的には、現在のような多くの「国民国家」の建設へと向かわざるをえなかった。

加藤博「地域世界と国民国家アラブ」『国民国家を問う

そんな土壌に加えて、対アラブとの人口比率を高めようとした移民奨励による、ユダヤ教に非改宗な旧ソ連崩壊後の移民や、「かってユダヤ教徒だった」という歴史的理由でのエチオピア移民等のサブ・エスニック・グループが持ち込む生活文化が、逆にイスラエルにいっそう民族的多様性をもたらしているという。

そもそも「民主的世俗的国家」という理念が具体的に提起され発展していったのは、PLOによる1964年に国民憲章を68年に改訂する過程においてであった。一方では、アラブ・ナショナリズムから相対的に独立したパレスチナナショナリズムの表明として、他方では、ユダヤ人国家イスラエルの存在を当時まだ承認していなかったPLOが「48年占領地(イスラエル領のこと)」とそこに住むユダヤ人を何らかの形で含み込む国家理念の創設として「民主的世俗的国家」は謳われた。そこでは、「シオニズム運動以前からパレスチナにいるユダヤ人」を「パレスチナユダヤ人(アラブ人のユダヤ教徒)」として「国民」と認めるということや、さらに進んで「宗教にかかわりなく望むものは誰でも平等な国民として生存権をもつ」といったことが議論された。その意味でこの当時の「民主的世俗的パレスチナ国家」は、同時にイスラエル領とされていた地域をも含み込んだ「一つのパレスチナ」という含意であり、ある種の二民族共存国家、いわゆるバイナショナル国家であった。だが、この理念が現実味を帯びたことは一度もなく、圧倒的軍事力を持つイスラエル国家の存在を否定することができず、二国家分裂を前提とした独立論ばかりが公然と語られてきた。そして公式には、88年のパレスチナ民族会議における「パレスチナ国家独立宣言」において「1967年占領地からの撤退」をイスラエルに求めたことが、同時に「48年占領地のイスラエル領有」を認めたに等しく、その時点でパレスチナ側からの「一つのパレスチナ案」は終焉を迎える。

早尾貴紀ユダヤとイスラエルのあいだ―民族/国民のアポリア

本はさらに、イスラエルの反シオニスト民主的行動機構ヤコブ・ベン=エフラットの「シオニストの悪夢」を引いていう。寸断され蝕まれた領土しかもたず、国境も領海も領空も管轄化におけないパレスチナは、経済的に自立できず、結局はイスラエルに依存せざるをえない。イスラエルが占領を続ければ、アパルトヘイト体制にならざるをえず、いずれ占領下のパレスチナ人からは市民権の要求が出るし、民主主義を尊重する国際社会が、半数近い住民に市民権を与えない人種差別を永久に許すはずがないジレンマに至っている、と。
いや、それだからこそ、イスラエルは声高に「国家」としてのアイデンティティを、断固として打ち立てようとして右派=大イスラエル主義に結束して、軍事制圧をも見せつけることで、社会求心力を高めようとしたのだろう。

イスラエル選挙管理委員会は12日、総選挙の最終集計結果を発表し、中道のカディマが28議席を獲得し第1党を維持したことが明らかになった。右派のリクードは第1党に1議席及ばず、27議席。以下、極右のわが家イスラエルが15議席中道左派労働党が13議席などとなった。第2党となったリクードを中心とする右派勢力が、国会定数120議席過半数となる65議席を占めており、連立交渉の難航が懸念されている。

イスラエル総選挙、第1党はカディマ確定
http://jp.ibtimes.com/article/biznews/090213/29152.html

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パレスチナイスラム原理主義組織ハマスの幹部、オサマ・ハムダン氏は「ガザの本格停戦はイスラエル総選挙の結果次第」との認識を示した。右派リクードのネタニヤフ元首相が政権の主導権を握った場合、エジプトの仲介で進む停戦協議は「合意が難しくなる」と指摘する。

ハマス「停戦、選挙の結果次第」 イスラエル総選挙
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20090212AT2M1101V11022009.html

情報の二者択一化と内輪に丸められることでの、問題の矮小化現象

社会がより多元化しアイデンティティの複合状態が一定の正当性を持って受け入れられ始めた結果、イスラエル側・パレスチナ側双方のエスニック・グループによる政治活動、いわゆるエスノ・ポリティクスが盛んになった。ただそれは、伝達される上でいろいろな意見の違いは捨象され、大変錯綜している情報も敵/見方という白か黒かな単純化図式の下に、遠隔地でキャンペーンが行われる。
特に日本では、ヨーロッパ〜ユダヤ教はもとより、アラブのことなんかこれっぽちも知ろうとしない今北産業なまま、ただセンセーショナルな映像を見て「親/反イスラエル」を声高に叫ぶ印象批評で消費してしまう向きは、ちょっとどうかとおもう。ガーヤットリー・スピヴァッグは日本とイスラエルを指して「ユーラシア大陸の両端にある二つの不条理」と称した。イスラエル建国時の日本は、五族共和な拡大アジア主義から一転して血統主義的な純日本人イデオロギー単一民族神話」でもって日本列島に貼り付いていたのだ。>id:hizzz:20080401
今ネット上でも呼びかけられている「親イスラエル企業へのボイコット」は、その実際のところは国際資本なそれらの企業に対してはへでもないことであるのに比べて、それが善意であってもボイコットに賛同するその多くは、単純な二項対立なイスラエル/パレスチナな発想が垣間見えていて、それがイスラエルには「反ユダヤ」メッセージを送っていることになっていること(ヨーロッパ・ユダヤ系は伝統的に金融を生業としてる者が比較的多い為、多国籍企業にも当然投資を行っている率が高い)、つまり「反イスラエル」ではあまりにアバウトすぎて、パフォーマティヴに彼らのホロコーストアイデンティティを強化してしまうループを助長している可能性があるのではないだろうか?
確かにイスラエル軍事行動としてのパレスチナ抑圧・惨殺は、イスラエル政府が糾弾される責務にある。その全身凍るようなかくも無残な不条理に対して「反対」メッセージを強く打ち建てたいという沸きあがる阻止衝動は十分共有するが、それはあくまでも反対運動側の手前勝手な事情にすぎない。上記でさんざん書いたとおり、また今回の選挙結果での組閣がどうなるか微妙であるように、政府そのものも所謂大イスラエル主義な一枚岩ではないのである。「反○○」という安易な二項対立でガチンコを押し戻そうとして、再反動でホロコーストアイデンティティを呼び起こし強化してしまわないためにも、もう少しイスラエル内部に食い込み、イデオロギーから解放された視点で純粋「特殊」から重層的「普通」に少しづつ引き戻していくのりしろの幅を作るポスト・シオニズム的キャンペーンが、周辺運動としても必要なのではないだろうか。

イスラエル文学賞エルサレム賞の受賞が決まった作家の村上春樹氏に対し、大阪市に拠点を置く非政府組織(NGO)「パレスチナの平和を考える会」がウェブサイトに掲載した公開書簡で「受賞はイスラエルの対パレスチナ政策を擁護することになる」として受賞辞退を求め、賛同者を集めている。
同賞は「社会における個人の自由の理念を表現した著作の筆者」に与えられる。書簡は、イスラエルパレスチナ自治区ガザで行った「虐殺や封鎖政策などはパレスチナ人の自由を抹殺する行為」だと指摘。村上氏の受賞により「イスラエルがあたかも自由を尊重している国であるかのようなイメージが流布される」と懸念を示している。

村上春樹氏に文学賞辞退を要求 エルサレム賞でNGO
http://www.47news.jp/CN/200902/CN2009021001000486.html

はっきりいって、イスラエル/パレスチナ問題とって、ユダヤパレスチナ人にとっても、日本人作家・村上春樹の受賞なんか、どーでもいいことではないだろうか。ただ日本にとっては、日本の作家が「イスラエル」の賞をボイコットすることによって、この問題に対する日本人=心情的パレスチナな自分たちのプレゼンスがたてばよい、またはパレスチナ問題がこの機に乗じて少しでもクローズアップされればよいという、たとえようもなく他力本願でしかないハナシを、他者たる村上春樹というビックネームを媒体として動かそうというパフォーマティヴな政治言動に過ぎない。それがよいとおもう者は、そういう政治信条として要求出せば宜しい。>http://0000000000.net/p-navi/info/column/200901271425.htm
それが伝わっているかどうかはともかく、報道によれば村上当人は授賞式に出席するようだが、その受賞スピーチも含め自律した作家活動(もしくは政治活動)として村上当人も又、勝手に考えてやればよいこととワタクシは考える。しかし、いくら文芸という発表行為は広くは政治に該当する原則とはいっても、好ましい例として挙げられているスーザン・ソンタグのような、常日頃から自らの思想信条を明らかにして時世に突っ込んだ政治的活動スタイルをとっている訳でもない村上には、当該問題への態度表明しなければならない作家活動上の必然性や信条はおそらくないだろうから、ちと筋ちがいか、とも。
現に、村上ファンや文芸者間でのこの受賞へのやり取りは、イスラエル/パレスチナに対する理解尺度をうんぬんするよりも、あくまでも村上に有利か不利か的評判問題として推移しているように見受けられる。そうであるなら、尚更どーでもいい。無論そうして行為されたことに関する批評は、そのスタンスが文芸にあろうが政治にあろうが表出自由にあるのも、これまた民主主義のひとつの営為ではある。
が、もしそれが「パレスチナの平和を考える」のではなく、そんな受賞是非という「媒体問題」にすり替わっている事上げ自体、複雑な遠隔地の問題を一から調べて各々で考えるより、身近な有名人の評判の賛同/反対メッセージに便乗した方がはるかに自己稼働効果が実感できうるという心理での代理消費活動となっている場合が多分にあるならば、それは結局は「イスラエルの人道犯罪」スルーに加担してしまっていることになってしまってる、のかもしれない。


●追記:てなわけで、授賞式で村上春樹は「ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む1000人以上が命を落とした。受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与えかねないと思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ」と出席理由を語った。どうやら同賞受賞是非論争は当人に伝わっており、十分熟慮してスピーチに臨んだようだ。自己テーマを「高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵」という抽象的文学表現で語り、ガサ攻撃/非武装市民と共に今回の受賞是非報道=イスラエル/パレスチナ両陣営からどちらの政治スタンスかと突き付けられていたことも含められたかのような自己存在を、「ぶつかって壊れる卵」の<個>の立場に常に立つと表出した。ついで60年代にビアフラ内戦で飢餓難民が出たことに際したサルトルの「飢えた子に文学は必要か」を彷彿とさせる文学命題に際して、「壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。」と表現した。そして「制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ。」と、表層的な軍事闘争・武力衝突の背後にある「制度」のコントロール=積極介入による事態打開も「制度をつくったわたしたち」は可能である、これは単なる「嘆きの壁」的不条理*1ではないとも、スピーチは示唆しようとしたのではないだろうか。
村上春樹さんの講演要旨
http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CN2009021601000180_Detail.html
・Always on the side of the egg 全文
http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html
村上春樹スピーチ全文和訳
http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20090218
・常に卵の側に(ハアレツに寄せられたコメント)
http://anond.hatelabo.jp/20090218205723

今の宙ぶらりんなパレスチナの状態を「私たちは『百年の孤独』で描かれたマコンドの人々のようなものです。世界から多くの注目を浴びながら、いつもその外にいて、自分たち自身の未来を決める知的な参加者なのではないのです。参加しない理由など何一つないのにです。」というサイードは、今回村上春樹がスピーチ・プロットに選んだ「高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵」=「制度対個人」を、生前こういった。

あらゆるものがパッケージに入れられ売り出される。これがネオリベラル市場経済の意味であり、それをグローバル化は世界に押し付けて、個人には異議申し立てや疑問視の余地がほとんど残されず、そのいっぽうで政府なり企業なりの大組織は多くの場合殆ど盲目ともいえる施策を追及し、大規模な環境破壊、深刻な遺伝子破壊、そして権力グループが無責任に利益を追及する可能性を生み出しつづけているのです。そのような文脈では知識人の役割とは対抗することであり、それは絶対に、そしておそらくどうしようもなく必要とされる役割だと思います。否定的なだけの愚かしい対抗のことではありません─それではだめです。そうでなく、対抗的であるということで、わたしがいわんとしているのは、ふるいにかけ判断し批判し選択することができること、その結果、選択と主体性とが個人へとはねかえってっくるようなありようなのです。現在とはべつのなにかの一部になること、つまり商業化された利害や営利的な目的をもたない共同体の一部になることは、重要です。これは達成するのが困難な目標です。しかし達成可能だと思っています。

エドワード・サイード収奪のポリティックス

また、かってノーム・チョムスキーも、「壁」の比喩をつかって、以下のようにいっている。

イスラエル-パレスチナでは)予測されたとおり暴力応酬のサイクルが一種の「部族(トライバル)戦争」の状態までエスカレートし、鋭敏な観察者には両方の社会が滅びる結果になる可能性が見えるようになっているのが現状だ。
イスラエル-パレスチナでは毎日のように悲痛な惨劇が起こり、そのたびに新たな巨礫が憎悪と恐怖、燃えさかる復讐の願望でできた「壁」に積み上げられる。けれども、その壁を突破するのに遅すぎるということはけっしてない。この毎日の苦しみを経験し、明日はもっとひどくなるたろうと予想する人々だけが、本気でこの使命に取りかかることができる。外にいる者たちにも、その道のりのけわしさを軽減するために大きな手助けをすることはできる。だが、それは、彼らが自分の果たしている役割と責任に進んで率直に立ち向かう用意ができてからの話である。

ノーム・チョムスキー中東 虚構の和平

と、いうことを鑑みてみると、ワタクシ的には村上のスピーチはなんとか無難に質されている政治マターもハズさない程度に纏めて文芸しときましたという印象で、そんなにネットで大絶賛されてるような感動までは、、、ちょっとそれウブすぎやしないか、と。

*1:近現代のユダヤvsアラブの武力衝突の始まりは、シオニストが聖地・エルサレム神殿を占領しようとしたきっかけで起こった1929年の暴動「嘆きの壁事件」である。反イスラエルな近視眼的には「壁」といったら「ガザの分離壁」なんだろうが、ガザを念頭に置いているなら尚更、ユダヤイスラムにとっての「壁」とは、第一義に聖地「嘆きの壁」、そこから始まっているのだという歴史・宗教的解釈が大前提にあることを、そこに異教徒が土足で踏み込まないようにしなければならないことも考慮しなければならないので、曖昧に含みをもたせたいいまわしを使ったものと推測する。

変質したシオニズムとアメリカ

シオニズムの日本のイメージは、ユダヤ教という宗教を結びついた保守・右派的印象で把握されてることが多いのだが、実現しているキブツ(集団農業生産)などの生産システムに見られるように、根本的には社会思想から来歴しているものである。
二国家共存案・バイナショナリズムは、1921年〜39年ハーレントらの「文化シオニスト」のみならず、ワイツマンやベングリオンシオニスト指導部の中で強かったが、民族融合を突き詰めるのならヨーロッパ各地域で融合すればよくてわざわざ1国を創出する必要がなくなるより、ユダヤ的神政を強く打ち出した「修正シオニズム」が運動の公式立場となり、結局イスラエルユダヤ国民国家として建国された。
米国籍ユダヤ移民で、「リバータリアン社会主義の一種を中東の地に実現する」というシオニスト青年運動に参加し一時キブツで働いたこともあったノーム・チョムスキーは、ナチとユダヤ人迫害で後退・一掃されなければバイナショナリズムは十分可能性があったし、70年代初めチョムスキーが再提案した頃は実現可能性があったからこそ、ヒステリックに封殺されたという。また、1971年にイスラエルが講和せず拡大主義に走ったのは、致命的な失敗であり、そのおかげで対立は継続し、イスラエルアメリカへの依存度を高めることになったきっかけとなったと分析する。たとえパレスチナ人国家ができたとしても、「それは(イスラエルと)同じようなモデルに沿って発展していくだろうと予想される。パレスチナ運動は、西側では時折、革命をめざす社会主義者運動であると説明されることもある。だが、それは本当の姿からはほど遠い。」と再三再四にわたって注意を促す。
70年代から彼と親密だったサイードは、第三次中東戦争圧勝と占領支配という90年代オスロ体制で分断されたパレスチナ国家は「バンツースタン(南アフリカアパルトヘイト政策下で、市民権を失った黒人に割当たられた自治区)」でしかないとわかるやいなや独立国家案を取り下げ、リバータリアン的な社会構造を前提としたバイナショナリズムに転向した。チョムスキー的には、実現可能性がまったくない現在、議論すら無意味、欧米ジャーナリズムでとりあげられるそれは実現するリスクがないからこそ取り上げる、むしろ戦術的には有害でさえあると主張する。アラブと「東方(オリエンタル)の」ユダヤ人に対する、組織的な人種迫害に非常に注目し、それらの迫害は大抵学識権威が宗教権威による煽動によって起こるか、あるいは、ユダヤ人大虐殺を合法的に過剰に利用する人物によって煽動されるのだが、イスラエルを支援するリベラル派の人々は誰もこのことについて言わないともチョムスキーは書いている。またある状況(何でも良いが、例えば政治状況、精神状態、芸術や科学の状況など)が、いともたやすく正統に変わるのだという。さらに、「責任がある」「実際的である」「現実的である」といった自己認識で自身の身を固める正統の効能でもって、知識人はそうして自己確認に囚われてわれわれの価値観に疑問を抱いたり、われわれ弁明者の特権を脅かしたりするのを止めることになる、かれらは、急進的な問題に煩わされないためなら、どんな道徳的、知的な犠牲をもいとわない。したがって、純粋なアラブ人の立場には、純粋なユダヤ人の立場に劣らぬほど、利己的な、ナショナリズムに基づく、状況ゆえの理由があり、こと中東問題に関しては、そうした理由がチョムスキーの批判の的となる。
彼によれば、60年代の体制よりのリベラル左翼は、ベトナム戦争に曖昧な態度をとっていた。ベトナム戦争を支持すれば、ニクソンと彼のウォーターゲート事件に結び付けられてしまう。また反戦は、ある意味「国家権力との対立、度重なる真っ向からの抵抗」になってしまう。そこでリベラル左翼正統派はじっと身を潜め、「講和条約」が結ばれると、これまでになく躍起になって右翼や左翼に復讐し、勢力挽回を図って合衆国の道徳的権威の地位に返り咲こうとしたという。「敵を全体主義者、過激派気どりの郊外居住者、反ユダヤ主義者、アラブ人による大量虐殺の支持者と言って弾劾するほうがよほど手軽だった」。そして、ユダヤ人の取るべき道として「ナチの虐殺の恐怖は忘れられないが、そこはもう行動選択の拠り所ではない。難民キャンプの生き地獄のような生活、悪化の道をたどるばかりの悲惨さが政治態度を決めるのだ」と、ホロコーストに訴えることない絶対的な道徳観により、イスラエルの価値は否定し、現代の中東問題のすべてを、第二次世界大戦ユダヤ人が被った苦難の記憶に還元することはできないと言う。

中東地域を組織化し、支配するために、アメリカ政府はイギリスが設計したシステムの基本構造を引き継いだ。現在の運営は「アラブの見せかけ(ファサード)」が行い、「保護領とか、勢力圏とか、緩衝国などといった憲法上の規則によって隠蔽しながら」植民地が併合された。これは直接支配よりもコスト効率のよい発明である(カーゾン卿と東方委員会1917〜18年)。「見せかけ」には「表面的な主権らしさ」だけが与えられるべきだと、パレスチナ・トランスヨルダン担当のイギリス高等弁務官は1946年に国連による植民地要求をまぬがれるための方策を説明した。だが、我々はけっして「抑えが利かなくなる」ようなリスクをおかしてはならないと、ジョン・フォスター・ダレスは、アメリカがイギリスの体制を引き継いだときに警告した。
この着想は伝統的なものである。同じ考え方が、西半球におけるアメリカの政策、東ヨーロッパにおけるソ連の政策、南アフリカのバンツースタン時代、今日のアメリカとイスラエルの中東和平政策などに指針を与えてきたのだ。イギリス支配下のインドのような完全な植民地でさえも、ほぼ無難なやり方で使われていた─現地人の「見せかけ」が統治していたのだ。
「見せかけ」は信頼できるものである必要があり、それゆえ弱体でなければならなかった。中東では、名門一族による専制支配が好まれた。どれほど暴虐にふるまおうが彼らは大目に見られ、それどころか敬意を払われたりさえする。彼らが利益の流れを誘導して、アメリカとその子分のイギリス、彼らのエネルギー企業や、そのお墨付きの企画を潤してくれさえすればよかったのだ。その役目を果たせば、彼らにはたんまりと見返りが与えられるのだが、それを支払うことになるアメリカの納税者にはなにも知らされない。
1973年以降は石油価格の一時的な上昇のため、アメリ財務省はオイルダラーを再循環させるために武器輸出や建設プロジェクトの請負などの方策を取ることを迫られた。原油価格の上昇にアメリカがとくに異議を唱えることがなかったのはこれがうまく働いたことが一因である。もうひとつの理由は、アメリカの石油会社が原油価格の急騰(アメリカの主要輸出品をふくむ消費財価格の上昇と並行して)で大儲けをしたことだ。これらの要素によりアメリカは中東の石油輸出国機構OPEC諸国との貿易収支を1974年から75年にかけて黒字に保ち、アメリカ企業は巨額の利益を上げることができ、財務省にはサウジアラビアによる米国債の購入で数十億ドルもの資源が還流する結果になった。
だが、「見せかけ」の現地政権が弱体で従順でなければならなかったことは問題を生んだ─現地の住民たちが資源の恩恵は自分たちが受けるべきたという考えに染まったために、国内の政情不安が起こったのである。このような「急進ナショナリズム」から、「見せかけ」を守ってやらねばならなかった。そのためには、ニクソン政権が「現地のおまわり」と呼んだような地域用心棒が必要だった。そういうものは非アラブの勢力であることが望ましかった。イラン(シャー時代)、イスラエルパキスタンなどがそれである。これらの副官たちにも責任は分与されるものの、警察本部は依然としてワシントンにあるということが暗黙のうちに了解されていた。

ノーム・チョムスキー中東 虚構の和平

ベトナム反戦運動を支持し『破綻するアメリカ 壊れゆく世界』など、米国内政治や国際政治においては、一般に左翼の立場に立って左翼を擁護しているチョムスキーの関心の中心は、もっぱら米国人のユダヤ人のイスラエル崇拝に向けられている。そのまさに米国でのアメリカ的言説の展開は、それ故に日本の反資本・反米左派にはジャスト・ミートなのではあるが、しかし、その米国中心の問題展開ばかりとなれば、ユダヤ人とアラブ人にはおざなりな態度ともなり、これがアラブ地域の問題であることが霞んでしまうこともしばしばある。
さて、そんなイスラエルユダヤを何故、米国は支持するのか?をさらっておく。
米国キリスト教徒の3分の一を占めているプロテスタントの多くは、聖書を字句通り解釈し、現実に存在しているユダヤ人がパレスチナで自分たちの国を再建することこそ、聖書の預言が成就する兆候のひとつだと信じている。プロテスタントの一派南部バプティスト(浸礼派)の敬虔な信者だったジミー・カーターが自伝で「このユダヤ人のために作られた国(イスラエル)は聖書の教えにのっとったものであり、神によって定められたものである」と述べているのはその典型。そこに加えて移民と開拓という米国の建国思想やフロンティア精神が、ディアスボラ・ユダヤ人を再結集させ新しい民主主義国家を築きあげるというシオニズム運動への親近感をいっそう増幅させてきた。
こうした傾向をさらに強めたのが、1970年代以降に米国で目立ち始めたエバンジェリカル(福音派)と呼ばれる、保守的なキリスト教グループの台頭である。ヒッピーやフリーセックスに代表された1960年代の「カウンター・カルチャー」への反作用として、米国社会が保守化傾向を強めたことや、かって「バイブル・ベルト」と呼ばれたようにキリスト教的な色彩が濃い南部バプティスト教会の信者であるカーターやクリントンが大統領に当選し、レーガンやブッシュは「モラル・マジョリティ」と呼ばれるようなキリスト教保守派からの強い支持を得ていた。
現在、イスラエルを最も支持しているエバンジェリカルは、イスラエルの成功を神の摂理の証明と見なし、1967年の第三次中東戦争イスラエルが圧勝したことは、救済へと向かっていく神意の現れと解釈している。こうした解釈を政治的なレベルにまで推し進めたのが「キリスト教シオニスト」たちだ。彼らはイスラエルを支持することこそキリスト教徒の義務と考えているようだ。

1979年の革命でイラン王政が倒されたことによって、中東の警察官としてのイスラエルの重要性は増大した。イランで軍事クーデターを起こそうとしたカーター大統領の特使ロバート・ユイサー将軍の試みが失敗した後、アメリカ、イスラエルサウジアラビア三者間で同盟を復活させようとした。サウジアラビアが資金を提供し、アメリカがイスラエル経由でイラン軍に武器を供給し、革命政府の転覆を図ろうというものだった。
そのころにはイスラエルアメリカへの従属関係は、他の理由から決定的なものになっていた。イスラエルアメリカやアジアでも副次的サービスを提供していたが、中南米で果たした役割はとくに重要だった。この地域では、おそろしく残忍な独裁指導者や殺人者たちにアメリカ政府が直接の支援を与えることは、国内の一般大衆からの反対や、そのような世論のムードを反映した議会の人権立法などによって阻止されていたからだ。カーター大統領も、また1980年代にはレーガン支持者たちも次第に、この役割を引き継いでくれる者としてイスラエルを頼りにするようになった。これは国際的なテロ・ネットワークの一環であり、こそには他にも台湾、イギリス、アルゼンチンのネオナチなどが含まれており、サウジアラビアが資金を供給することが多かった。イスラエルが武器開発に協力し、実際の戦闘状況における実験使用の機会を提供してくれることも、アメリカ政府にとってはしだいに魅力あるものになってきた。アメリカ艦隊への基地提供、武器の軍事配備、非常事態対応計画、共同訓練などの面においても、同じことがあてはまった。これらもまた、全体的な戦略構想の枠内のものであり、冷戦下の相互依存によるものだった。
イスラエルの役割は、「非ソビエト・シナリオ」─すなわち、「急進ナショナリズム」への対抗─において軍事介入に使える駒であるということであり、そのことによって「アメリカの選択肢の幅を広げている」ことにある、というベンジャミン・ネタニヤフの側近ドーリ・ゴールドの分析だ。

こうしたことは、ひとつの問を提起する─私たちの名高い「人権の重視」はどこへいったのか?中東のさまざまな役者たちに、人権はいったいどう割り振られているのだろう。ことは簡単だ。権利は、システムの持続への貢献度に応じて割り振られる。アメリカは、自明のこととして権利を持っている。イギリスは、忠実な攻撃犬であるかぎりは権利を持っている。「アラブの見せかけ」のメンバーは彼らが自国民を管理し、西側への富の流出を保障することができるかぎりは権利を持っている。
パレスチナ人はどうか?彼らには富はない。彼らには力はない。したがって、もっとも初歩的な外交術の原則に従って、彼らには権利が無い。これは2と2を足して4になるというような話だ。それどころか、彼らの権利勘定は負債ですらある。その理由は、彼らが家や土地を奪われ、迫害されていることが、中東各地で抗議と抵抗を誘発するからだ。
こうした観点からすれば、ここ30年程のアメリカの政策はきわめて単純に予測できるものだった。その基本的な要素は、これまでどおりの極端な拒絶主義(リジェクショニズム)である。私はこの言葉を、人種差別的にではなく適用し、旧パレスチナへの権利を争っている二つの勢力がお互いに相手方のネイションとしての権利を拒絶する人たちのことを指している。したがって、パレスチナ人のネイションとしての権利を拒絶する人たちは拒絶主義者である。そしてアメリカは、この30年間というもの、拒絶主義者たちの先頭に立ってきた。いわゆる「和平プロセス」はこの基本構造の延長戦上にあるのだ。

米国内で激しい反発・非難・糾弾をもたらす、そうしたチョムスキーの言動を、サイードは「アメリカのリベラルがこの30年間わがもの顔で歩いていた、床一面に敷き詰められたカーペットの隅を、チョムスキーが思いがけずめくってしまった」と称し、チョムスキーの務めは「イスラエルパレスチナにおける民衆運動が、いずれ生まる国際的な社会主義運動の支援を得て、望みを実現する時期が来るまで」ニ国民共存という解決への望みをつなぎ続けることにあると、その役割を見る。