「労働」の形而上学

週刊新潮に拠れば、文学畑の学者が訳した『資本論』が売れてて、マルクスブームなのだとか。無論このハナシのミソは「文学」つーとこにある。
資本論』が、「経済論」なのか「社会論」なのか、はたまた「思想(文学)論」なのかその解釈(批評)は、解釈の依って立つ社会が持つその時代の世界観の差でもある。
ワタクシ別に全部読んだ訳ではない、いくつかの拾い読みと、いくつかの解釈&批評論で解釈する限りは、タイトルに出したようにこれは「労働」の形而上学=文学だ、と考える。世の中の価値を金銭に換算してることへの疑問から出発してるのだけれど、彼が辿り着いたのは、世の中の価値を労働に換算することだった…ってハナシだよね?コレ。
世の中でもっとも価値があるのは「労働者」で、その労働者の上前はねて(=搾取)生きている資本家&ブルジョワ階級はけしからん!つーことで、万国の労働者は怒りをもって団結/連帯して、資本の片よりを無くすべく共産革命(=ユートピア)を起こさんといかん、となったんだよな。>社会主義革命思想
ま、そこいらへんはガリガリとした思想補強本がいっぱい出てるからそいつにおまかせするとして、問題はそうした思想が生まれた場所にある。

モダニズム

文学/芸術などと称される19世紀文化は、資本制度化する(=商品化)ことに依って始めて、文学/芸術として成立ち現在まで生き残ったりしてるんぢゃあないんだろうか。たとえ「アバンギャルド」などど自らを称してもそれは変わらない。ヴォルプスヴェーデ、アスコナ、バウハウス、日本の白樺派、、、どれもこれもエリート意識パンパンのスノッブ達でしかない。この共同体の中からは、創立メンバーの個々の創作活動以上の共同体から産み出される「労働成果」はナニも生まれなかったってことだけは、はっきりしている。何回もカキコしてるとおり、モダニズムの究極はコミュニズムかオカルトであり、その2つが合体すると、ファシストになる。そして洋の東西問わず現にそうなって、第二次世界大戦に。
モダニズムは失敗したのじゃない。むしろ成功しすぎたのだ。マルクス主義ユートピア思想(&福祉&人権)の実践運動のひとつとして、前にカキコした「ランフォード・キッチン」id:hizzz:20040726。これはあまりにも成功しまくった。成功しすぎた故に、今だと『スーパーサイズ・ミー』な過剰カロリー摂取=余剰となる始末(苦笑)。

ユートピアな趣味生活

スーパーサイズ・ミー』を見ても、あれを反資本主義映画と見るのは社会思想主義者でしかない。そゆ生活をおくるのは、そゆ「趣味なヒト」としかみなされない。何故なら、単一ファーストフードという商品自体が、とっくに世の中では陳腐化しているからである。マクドナルドが真に商品力をもってたのは、80年代である。藤田田が失脚したのも『マクドナル化する社会』にマクドナルドの商品力は減退していたのである。だから、反資本主義の目玉として(落ち目の)マクドナルドを持ちだしてやり玉とする周回遅れな現代社会論陣営には、はぁ???ってカンジがぬぐえない。
戦前戦後を含めて日本では「飢えない」=「豊か」=ユートピアつーことをアコガレとしてやってきたid:hizzz:20040428#p3。そしてそれは達成された。達成されすぎて、後がなかった。豊かを満喫する趣味と生活(=自分のことばっかり考えてたい)が第一で、その為の「労働」ってことがダサいことになった人々を大量生産し、そゆ趣向=精神主義でいることを親や社会が全力でもってささえたのである。しかしその余剰を生みだし支える者(=労働力)は今急速に減ってきている(=高齢化)が、反対に余剰に生きる者(消費力)は増大(=高齢化+嫌労働な若者)している。そうすると、労働力の生みだす余剰の恩恵を受けつづけられる者とそうでない者とで、差がつく。たとえ精神主義を主張する者であっても、霞を食べて生き続ける者はいないから、いくら精神主義的労働の高い価値を強調しようとも、その源は、他者の労働の余剰に依って支えられた上のことに変わりはない。勝ち組/負け組という二分法を使うとするなら、需要と供給のアンバランスな所であろう。そしてそれは趣味と生活の牙城、サブカルに於いてもいえることだ。Do it Yourselfだった筈のサブカルチャーは、サブカルという1ジャンルになるにつれて、生産と消費の二分化が起こり、生産を消費しつくすという現象が表面化したid:hizzz:20040109。
かくして「労働」を至上価値としてしまった社会思想系には、その誕生時からハゲシイ自己矛盾をかかえてる。マルクスも含め19世紀的社会思想成立の基盤(=ブルジョワジー)は、そういう「労働搾取」の上に成立した文化資本だからだ。そしてその矛盾はその思想を信条とするかぎり、拡大する。それは学問とて例外ではない。「学歴」という形で人の付加価値=商品化されたのである。一転して、市場の要請する昨今の大学の独立行政法人化への批判で、「学問の自由空間」的場の論理を展開する者は、どゆ論調をたどろうとも所詮、その依って立つ自らの「特権」価値=既得権益(文化+経済資本+権威)をふりまわしていることに他ならない。企業は淘汰されても、大学は淘汰されては困るらしい。しかし、大学=学問だっていう無謬性が、そもそも変なんですけどー。かっての「大学解体!」つーのは、一体全体、どーなったんでせうか?

反資本主義運動の自己矛盾

商品サイクル/会社の寿命というのは確実にあり、一時期いくら権力化したとて、一定量を越えて飽和状態を迎えたら、衰退に向かう。マクドナルドが価格ガリバーでありえたのも数年でしかない。そして全ての価格は市場価値によって再編成される。そうした上に、アウトレット/ディスカウントショップが、そして100円ショップという市場末期商品群による均一価格という共産生活?なんてのが、革命なしに静々と浸透する日本(笑)。
こむずかしーハナシを振り回す反動運動な方々を含めて、そんな「ポストフォーディズム」的商品群で日常を賄い、サブカル始めとして「ポストフォーディズム」的思想趣味生活を回してるというのが、リッチもプアーも含めた多くの者の生活実態ではなかろうか。
フリーター&プーなちまたのヤンキーのモノグラム*1所有率はかなりのものだし、たとえ住所不定でもケータイ持ってナイほうが今や珍しいほど。19世紀的ブルジョワ階級だけに許された、飢える心配のないスノッブな趣味生活つーのは、中産階級はフツー、下層階級だってやろうと思えば、(その期間はともかく)できちゃうのだ。親のためこんだ資産や年金、はたまた社会福祉金をGetできさえすれば、わざわざ「賃労働」をしなくても、その資金が続くかぎりスノッブを決め込んでいられる。いわば、総プチ資本家状態。
さて、そうすると、問題はそういう親等の周囲のインフラを持たない故に、学歴(=文化資本)もなく、社会福祉制度基準にもひっかかることもなく、長時間の単純賃労働につくしか食べていく手立てがナイ者が、資金ギレで「脱落」を余儀なくされてルサンチマンたまったりする場合だ。こゆひとたちが、反資本主義運動をやっているというのなら、よく分かるし共感もするんだけどねー。

*1:定価で買えば3万以上するルイ・ヴィトンの財布。無論「なんちゃってヴィトン」率も高いんだけど、フェイクが精巧であればある程に、そうしたハク付ブランド=権威資本という意味が、いとも簡単に消費によってくつがえされるってことなんぢゃあないだろうか。

資本裕福層の罪滅ぼし

どーも、「反資本主義!」とデカいフロシキぶちあげてるひとの中には、実は親にマンション買ってもらってたり、生活費はもとより、大学在籍満期+大学院などの授業料を親に負担してもらってたりという親族資本注入充実組(文化資本+社会資本+経済資本)な高学歴層が結構多いつー。口をひらけば「反資本!」なんだけど、やってることは結構、金や物に異常な執着を示す資本主義的スノッピー全開生活そのものだったりもする。それでなおも悪いこと?に、どなたも理想主義者なんである。いや建前ダケかもしれんが、少なくとも他者には「理想主義」を表現してやまない方々でもある。そして「理想」を表現すれども、プラグマチックにそれを現実に落し込む作業は、何故かやらない。どーも、そゆ作業=労働すら、自己の理想から離れるらしくて、むしろ毛嫌いしてる観すらある。
理想を追求しつつも実績ナイそんな自己矛盾生活ばっかしてたらコジレるしかないぢゃん。と、ワタクシいつもそゆ生態を目の当たりにすると想うのである。そして案の定、コジレてく。コジレる度に浮世バナレしてく。「おかしいのは世の中で、コジレる自己は正」とそんな自己を肯定して、正気?(=自己存在の可能性)を保つ。はぁぁ。ワタクシはそんなこんなな生態は、19世紀のブルジョワと現在のぷちセレブな「おいしい生活」とドコがドーちがうのかと、小一時間。。。
いやだから(信条とする思想には間違いない正統なものであるが)そおんな自分に良心の呵責があって葛藤してるという個々の心情の違いなら、それはもう、「文学」に、ほかならない。なおも「いやこれは社会運動なんだ!」と頑強にいいはる向きには、幸先に社会正義とかの「理想」を言っとくか言わないかのバリア=エクスキューズの違いでしかないそれは、「表現」の問題でしかないと。
でー、そんな大ブロシキなバリア思想を他者に立てとかんとどーにもならない、しかもそれでもコジレるのにそこに縋るしかないというフリをしなければならない脆弱な〈個〉って、一体なんなんだろうって、考えるんだけど。。。

連帯する為の〈個〉

この場合の解決法としては平たくいえば、抱え込んだ既得権益(資本)か自己理想をを捨てるかのどちらかであるが、ま、どっちも捨てられないと。だから第三の道オルタナティブ」を模索するってことで、とりあえずの自己保留。で、なすすべもなく保留期限ギレ、と。したらコジレの元の既得権益文化資本+社会資本+経済資本)を全面肯定するっきゃナイっすな。そして、どーしても階級労働運動をするというなら幸先に、そゆ既得権益無き労働者(ホームレスにはならないで底賃金労働に従事する底学歴下層階級)と自己を、無視してないで、他者(このひとたちの労働搾取の上に生きている自己)としてきちんと対峙することだ。
して一番触れられたくない部分(親族資本使いまくり=資本独占)に対しては、改めて〈個〉として自己(商品)価値=自己資本を〈個〉に表示して(だから表現の問題なのだ)、堂々とその対価を貰えばよい。その交渉過程を当事者同志が納得してれば、それはそれで取引成立なのである。そしてその手段とした取引分ダケ、自己は責任を持てばよいハナシである。大ブロシキな思想信条と〈個〉が自己の中で不可分だから、掲げる大フロシキの内容を達成できえない自己にけつまずく。
目的は手段を正統化しない。その責任も持てないのに、中途半端に援助を受けようと誇大壮語するから、他者の批難(=世間)にカリカリしてコジレるか、過剰に自己防御しようとしてファシズムぶりを晒すんである。
「資本が、〈帝国〉が…」ってデカくて小難しーことをオルグする熱意の前に、どーでもいーけど自分のアタマのハエをどーにかせんかいぃ(=説得力無し!)ってことだね。

集団(共産)主義と〈個〉

「連帯」「団結」という集団主義と、フォーディズム(大量生産)は19世紀の双子の思想でしかない。なのに、フォーディズム&ポストフォーディズムを批判する側(社会思想)の根本に、集団主義っきゃプロトコルがナイってことが一番の原因。なのになおもそうしたところに「可能性を模索」する*1というのが、そうしたリベラル派の論調である。そゆ説は、個人の勝手である。だから、「模索する」それはもうはや心情であって「文学」である。社会は模索なんかしない。いろんな結果総体として追尾認識されるダケだ。
思想はさておき、現在の趣味と生活を模索する大半の者は、なによりもそうした思想社会の押付ける〈個〉をコントロールしようとする集団主義に反発して、学校や会社や家庭からドロップアウトしたり「自分さがし」に奔走するのではないか。大体、「フリーター」等既存コースからのドロップアウト組を労働問題として捉え直すんなら、今までの労働運動は一体全体ナニをやってたんだ?リストラの風吹きまくる中で、あれだけ団結&連帯を声高に叫んだ連中のあの膨大な組合資金と組織の無能ってことを、ナゼ問わないのか不思議でならん。そゆことを全部スルーした中で、ポストフォーディズムがどーたらこーたらといって、やっぱりマルクス的労働観は正しかったと旧左翼ヲヤヂのちょうちんを持たせるようなコト(68年革命)にご奉仕しまくるタコ壷言論運動は果して社会運動といえるのか、と小一時間。。。
そゆところを周回していると、「フリーター」「ニート」「ひきこもり」などという、集団(共産)主義をドロップアウトする〈個〉の問題は、解けないどころか、むしろそこに隠された階級差を自説の立ち位置の為に積極的に隠蔽することにもなっているのではないだろうか。


社会主義的リアリズムがすべてハゲ落ちたヌルい心情を至上のものとしてしまった形骸化した「運動」とやらが、労働余剰がない社会故に、受入られなくて先ボソリになるのは、当然の成り行きなんでないかな?