謝罪関係を紡ぐことばとは。。。1

昨今の反動保守な言説をみていると、「村山(&河野)談話」さえ粉砕すれば、日本の正しさが証明されるとでもいわんばかりな論スジなのだけど、他国との外交関係はそんな単純なものではない。もう少し事実関係を知ってる者は、日本側謝罪だけを羅列して(日本側問題発言に対する謝罪はカットして)、いやもう散々日本は謝ってきたのだといいはるスジもいる。謝罪は相手側に謝罪として受け入れられて初めて成立するもの。てな訳で、ざざっと謝罪-問題発言ループな外交経過をピックアップ。

とりあえずの国交回復

日本は韓国と国交を回復した後、両国の「過去の不幸な関係」について、「遺憾」と「反省」という文言が、両国で確認・明文化された。

日韓共同コミュニケ 1965年2月20日
李外務部長官は過去のある期間に両国民間に不幸な関係があったために生まれた、韓国民の対日感情について説明した。椎名外務大臣は李外務部長官の発言に留意し、このような過去の関係は遺憾であって、深く反着していると述べた。椎名外務大臣は、日韓会談を誠実に進めて両国間に新しい友好関係を樹立していくことこそが、正義と平等と相互の尊敬とに基づく両自由国民の繁栄をもたらすものであるとの強固な信念を披瀝した。
http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/gaiko/bluebook/1970/s44-3-1-3.htm

日韓基本条約(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)1965年
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/nikkankihonnjyouyaku.htm
・日韓請求権並びに経済協力協定
(財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定)1965年

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19650622.T9J.html
日韓基本条約の関係諸協定,日韓請求権並びに経済協力協定
(財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定),
交換公文(商業上の民間信用供与に関する交換公文)1965年

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19650622.THJ.html

日中戦争およびアジア地域諸国への植民地支配について、日本が「遺憾・反省」から進んで「謝罪」という明確な表現を公式に表明したのは、1972年日中国交回復時が初である。

日本国政府中華人民共和国政府の共同声明 1972年9月29日
過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_seimei.html

田中角栄首相は、周恩来首相との夕食会の挨拶で「わが国が中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明するものであります」と発言。しかし「迷惑」という言葉は周を不機嫌にさせ、反発を呼んだ。二階堂進官房長官は「こんなにたくさんの犠牲者をですね、日本の軍部が中国の国民に与えておって、田中さん、あなたはご迷惑ですみますか」と批判した。
・日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約(日中平和友好条約) 1978年
http://list.room.ne.jp/~lawtext/1978T019.html
・1970年前後の外交
 http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/gaiko/bluebook/1970/s44-contents.htm

「歴史認識」問題浮上

歴史認識」が外交問題となったのは、「歴史教科書問題」が勃発した1982年6月以降のことである。教科書検定で「侵略」が「進出」に書き改めさせられたという報道が大々的になされ、中・韓政府から「歴史歪曲」として大批判がおきた。日本政府はこれに対応して以下の見解を示して、沈静化した。

「歴史教科書」に関する宮沢内閣官房長官談話 宮沢喜一 全文 1982年8月26日
一、日本政府及ぴ日本国民は、過去において、わが国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って平和国家としての道を歩んで来た。わが国は、韓国については、昭和四十年の日韓共同コミュニケの中において「過去の関係は遺憾であって深く反省している」との認識を、中国については日中共同声明において「過去において目本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことの責任を痛感し、深く反省する」との認識を述ぺたが、これも前述のわが国の反省と決意を確認したものであり、現在においてもこの認識にはいささかの変化もない。
二、このような目韓共同コミュニケ、日中共同声明の精神はわが国の学校教育、教科書の検定にあたっても当然、尊重されるぺきものであるが、今日、韓国、中国等より、こうした点に関するわが国教科書の記述につい批判が寄せられている。わが国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する。
三、このため、今後の教科書検定に際しては、教科用図書検定調査審議会の議を経て検定基準を改め、前記の趣旨が十分実現するよう配慮する。すでに検定の行われたものについては、今後すみやかに同様の趣旨が実現されるよう措置するが、それまでの間の措置として文部大臣が所見を明らかにして、前記二の趣旨を教育の場において十分反映せしめるものとする。
四、わが国としては、今後とも、近隣国民との相互理解の促進と友好協力関係の発展に努め、アジアひいては世界の平和と安定に寄与していく考えである。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/miyazawa.html

その後、そのような事実は問題とされた当年度の教科書検定ではなく、誤報であったことが明らかになる。この誤報問題がからんで「中韓内政干渉」「内政干渉に屈伏した政府」と保守ナショナリスト達の憤懣が表面化し、この反動に乗じて居場所確保した歴史修正主義皇国史観な発言もまた、政治の場でクローズアップされてくる。
だが、その当年度の検定では「侵略→進出」変更はなかったのだが、1955年(自由党と合同前の)民主党「うれうべき教科書の問題」報告書により、文部省が教科書検定制度化し「原爆の悲惨な面は記述しない」「戦争を暗く描かない」「太平洋戦争に関しては、事実であってもその記述を控えめに」「自国の行為については『侵略』の語を用いず、『進出』とせよ」とするガイドラインを示していた。これに対して著作者であった家永三郎が、学問・思想の自由を侵すものだとして損害賠償訴訟を起こし、1970年高裁で違憲判決が出て検定は後退し、1975年には「南京大虐殺」などが復活してきていた。
この談話を踏まえて政府は歴史教科書検定基準の一要素として「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること」を求める、いわゆる「近隣諸国条項」を盛り込むことを決めた。

「靖国」問題と詮議される謝罪のことば

1984年9月来日した全斗煥大統領の歓迎晩餐会での裕仁発言。

全斗煥韓国大統領歓迎宮中晩餐会天皇挨拶 裕仁 1984年9月6日
今世紀の一時期において両国の間に不幸な過去が存在したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います。
http://www.geocities.jp/nakanolib/choku/cs59.htm

韓国メディアは「遺憾」の韓国語翻訳を、「謝罪:自分が犯した罪について許しを乞う」ではなく「謝過:過ちにつて許しを乞う」という意味で伝えた。日本語の「遺憾」は、自責と自然災害や他責の両方の意味を含んでいる曖昧な言葉であるとして、日中声明には日本国という主体が明確であるのにもかかわらず、この天皇発言は責任主体が不明確であると批判が噴き出した。
さらに藤波孝生官房長官の私的諮問機関「閣僚の靖国神社参拝に関する懇談会」の「宗教色を薄めた独自の参拝形式をとる事により公式参拝は可能」を受けて、中曽根康弘が1983年4月21日「内閣総理大臣たる中曽根康弘」として公式参拝官房長官談話を出して1985年8月15日には戦後初めて終戦記念日靖国公式参拝を行ったことが、中韓の不信に輪をかけた。ただちに人民日報は「東条英機を含む千人以上の犯罪人を祀っている靖国神社への(日本政府各閣僚による)参拝」を、「日本軍国主義による侵略戦争の害を深く受けたアジア近隣各国と日本人民の感情を傷つけるもの」と強く非難。9月中国政府が「アジア各国人民の感情を傷つける」と首相公式参拝に懸念表明し、「A級戦犯を祀っている靖国参拝」を政府閣僚がしないように申し入れた。ここで78年に合祀されていた「A級戦犯」が、詮議の俎上にあがってきた。10月に自民党靖国神社A級戦犯の合祀取り止めを要請したが、神社側は拒否。そんな経過の果てに翌年首相参拝は見送りとなり、政府の公式見解が出された。

内閣総理大臣その他の国務大臣による靖国神社公式参拝に関する後藤田内閣官房長官談話 後藤田正晴 1986年8月14日
靖国神社がいわゆるA級戦犯を合祀していること等もあって、昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある。それは、諸国民との友好増進を念願する我が国の国益にも、そしてまた、戦没者の究極の願いにも副う所以ではない
政府としては、これら諸般の事情を総合的に考慮し、慎重かつ自主的に検討した結果、明8月15日には、内閣総理大臣靖国神社への公式参拝は差し控えることとした。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/dai2/siryo1_9.html

1986年5月「日本を守る国民会議」編の高校用日本史教科書が、近代日本の立場を強調しているとして議論を呼ぶ。5月中国外交部が内容の正確性に「疑問」を呈し、アジア司長が抗議の覚書を駐日大使に渡した。
9月藤尾正行文部大臣が日韓併合は、韓国にも責任」と雑誌発言したことで問題は再燃する。さらに「今回の教科書検定問題に関連して文句を言っているやつは世界史の中でそういうことをやっていることがないのかを、考えて御覧なさい。こっちも認めるのはいいが、相手も認めなきゃ。」と歴史教科書問題にも言及した。首相は文相を更迭し、談話を出す。

内閣官房長官談話 後藤田正晴 1986年9月8日
藤尾文相の発言は、わが国が様々な機会に表明してきた過去の戦争への反省と、その上に立った平和友好への決意はもとより、近隣諸国との友好的かつ良好な関係の維持強化を図るとのわが国外交の基本政策について、無用の疑惑を生ぜしめせたものであって、はなはだ遺憾である。
韓国、中国等に対しては、このような事態にたちいったことに深く遺憾の意を表する。

30日中国外交部は、遺憾であるとしながらも「日本政府がすでに同発言をめぐる状況に注意を払っていることに照らし、これ以上は論評しない」とした。さらに9月21日訪韓した首相は、全斗煥大統領にも重ねて陳謝。
1988年4月奥野誠亮国土庁長官「(戦前は)白色人種がアジアを植民地にしていたのであり、だれが侵略者かといえば白色人種だ。それが、日本だけが悪いことにされてしまった。」が問題となり辞任。

1988年8月竹下登首相は訪中し、西安で講演。

竹下登内閣総理大臣西安記念講演「新たなる飛躍をめざして」 竹下登 1988年8月29日
過去の歴史に対する厳しい反省を出発点とし、日中共同声明、日中平和友好条約、日中関係四原則の精神に則って、日中友好協力関係の一層の強化発展をはかり、いかなることがあっても揺らぐことのない関係を築き上げるため、引き続き全力を傾注していくことを改めて表明いたします。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/exdpm/19880829.S1J.html

竹下首相は1989年2月18日国会で、軍事同盟を結んでいたヒトラーがヨーロッパで起こした戦争をどう考えるかと問われ「過去の戦争に対してはこれは偶発的であったとか、これは自衛行為であったとかいろいろ議論があることは承知している。しかし、これを総括して侵略戦争だ、ということはやはり、後世の史家そのものが評価すべき問題だと思っている。」と答弁。国内はもとより中韓からも、いったい何時まで「後世」の評価を待たねばならないのか等の批難に、政府見解発表。

先の戦争に関する政府見解 小渕恵三 1989年2月20日
日本が過去の戦争を通じて近隣諸国等の国民に重大な損害を与えたことは事実。
2 戦前の日本の行為について、国際的には侵略であるという厳しい批判を受けているという事実を十分認識する必要がある。

1989年4月来日した中国の李鵬首相は記者会見で、天皇会見の中で明仁が日中両国間の歴史に触れ「近代において不幸な歴史があったことに対して遺憾の意を表する。」と述べたと発言し、これが天皇による中国への謝罪だと報道されるが、宮内庁をはじめとした政府機関は明言を避けた。
1990年5月来日した韓国廬泰愚大統領を迎えた晩餐会で、明仁は先の全大統領を迎えた裕仁の言葉を引用して以下のように挨拶した。

廬泰愚韓国大統領歓迎宮中晩餐会天皇挨拶 明仁 1990年5月24日
昭和天皇が「今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存在したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならない」と述べられたことを思い起こします。わが国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません。
http://www.geocities.jp/nakanolib/choku/ch02.htm

裕仁よりも踏み込んだ天皇&首相発言として、韓国では初めて好意的に受け取られはしたものの、「痛惜の念」がわかりにくいと批判された。
またこの時、海部俊樹首相は首脳会談で以下のように発言した。

日韓首脳会談 海部俊樹 1990年5月25日
過去の一時期に朝鮮半島の方々がわが国の行為により、耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて謙虚に反省し、率直におわびの気持ちを申し述べたい。

1991年9月タイ訪問した明仁は、王室晩餐会で挨拶。

タイ国王主催晩晩餐会天皇挨拶 明仁 1991年9月26日
日本は、先の誠に不幸な戦争の惨禍を再び繰り返すことのないよう平和国家として生きることを決意し、この新たな決意の上に立って、戦後一貫して東南アジア諸国との新たな友好関係を築くよう努力してきました。

「反省・謝罪」を避け「痛惜」よりも後退した表現とメディアには受け取られ報道された。

慰安婦問題の表面化

1970年代から慰安婦問題の解明&責任を追及する運動は始ってた。80年代末に韓国でドキュメンタリーが報道されたことがきっかけで、91年に元慰安婦女性が名乗りをあげたことで、韓国世論に火がついた。

内閣官房長官談話 加藤六月 1992年1月13日
1関係者の方々のお話を聞くにつけ、朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦の方々が経験されたつらい苦しみを思うと、胸のつまる思いがする。
2今回従軍慰安婦問題に旧日本軍が関与していたと思われることを示す資料が防衛庁で発見されたことを承知しており、この事実を厳粛に受け止めたい。
3今回発見された資料や関係者の方々の証言やすでに報道されている米軍等の資料を見ると、従軍慰安婦の募集や慰安所の経営等に旧日本軍が何らかの形で関与していたことは否定出来ないと思う。
4日本政府としては,累次の機会において、朝鮮半島の人々が、わが国の過去の行為によって耐えがたい苦しみと悲しみを体験されたことに対し深い反省と遺憾の意を表明してきたところであるが、この機会に改めて、従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた方々に対し、衷心よりおわびと反省の気持ちを申しあげたい。

宮沢首相は1992年1月に訪韓し、海部発言を踏襲した政策演説を述べる。

宮澤喜一内閣総理大臣大韓民国訪問における政策演説 宮澤喜一 1992年1月17日
我が国と貴国との関係で忘れてはならないのは、数千年にわたる交流のなかで、歴史上の一時期に、我が国が加害者であり、貴国がその被害者だったという事実であります。私は,この間,朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて、ここに改めて,心からの反省の意とお詫び6)の気持ちを表明いたします。最近、いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが、私は、このようなことは実に心の痛むことであり、誠に申し訳なく思っております。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/exdpm/19920117.S1J.html

首脳会談では「耐え難い苦しみに遺憾」に重ねて「改めておわびと反省」と発言。

日韓首脳会談 宮澤喜一 1992年1月17日
関係者の話を聞くにつけ、朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦が体験した思いを考えるにつけ、胸が詰まる。証言や資料から見ると、募集などで軍が何らかの形で関与していたことは否定できない。これまでに耐え難い苦しみに遺憾を表明したが、ここで改めて筆舌に尽くしがたい苦しみに対して衷心よりおわびと反省をしたい。

更に廬大統領に慰安婦調査を約束した。

朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表 加藤六月 1992年7月6日
慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所慰安婦の街生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認められたということである。
政府としては、国籍、出身地の如何を問わず、いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい。また、このような過ちを決して繰り返してはならないという深い反省と決意の下に立って、平和国家としての立場を堅持するとともに、未架に向けて新しい日韓関係及びその他のアジア諸国、地域との関係を構築すべく努力していきたい。
この問題については、いろいろな方々のお話を聞くにつけ、誠に心の痛む思いがする。このような辛酸をなめられた方々に対し、我々の気持ちをいかなる形で表すことができるのか、各方面の意見も聞きながら、誠意をもって検討していきたいと考えている。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kato.html

1992年10月訪中した明仁は、晩餐会で発言。

楊尚昆主席主催晩餐会天皇挨拶 明仁 1992年10月23日
我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとすることころであります。戦争が終わった時、我が国民は、このような戦争を再び繰り返してはならないとの深い反省にたって、平和国家としての道を歩むことを堅く決心して、国の再建に取り組みました。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/ ~worldjpn/documents/indices/JPCH/

明仁はここで主体(加害責任)を「我が国」と明確にした上で、「反省」を述べた。楊主席は「中日関係に不幸な一時期があったため、中国国民は大きな災難を被った。前のことを忘れず、後の戒めとし、歴史の教訓を銘記することは両国民の根本的利益に合致することである」と返答した。
翌年、政府の慰安婦に関する最終調査結果がでると、内閣は談話を発表した。これが「河野談話」である。

慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話 河野洋平 1993年8月4日
 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html

先の調査を受けて、該当者の高齢化も鑑みて、時間がかかる法的賠償より別の実質的措置が取れないかという民間の声も相まって、補償金を民間募金で賄い運営費や医療・福祉支援などに国費補助をする「女性のためのアジア平和国民基金」が発足した。

村山内閣総理大臣による「女性のためのアジア平和国民基金」発足のご挨拶 村山富一 1995年7月
今年は、内外の多くの人々が大きな苦しみと悲しみを経験した戦争が終わってからちょうど50年になります。その間、私たちは、アジア近隣諸国等との友好関係を一歩一歩深めるよう努めてまいりましたが、その一方で、戦争の傷痕はこれらの国々に今なお深く残っています。
いわゆる従軍慰安婦の問題もそのひとつです。この問題は、旧日本軍が関与して多くの女性の名誉と尊厳を深く傷つけたものであり、とうてい許されるものではありません。私は、従軍慰安婦として心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対して、深くおわびを申し上げたいと思います。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/m_hosoku.html

元「慰安婦」の方々に対する内閣総理大臣の手紙 橋本龍太郎 1996年
このたび、政府と国民が協力して進めている「女性のためのアジア平和国民基金」を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。
いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。
我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。
末筆ながら、皆様方のこれからの人生が安らかなものとなりますよう、心からお祈りしております。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JH/19960000.O1J.html

慰安婦問題とアジア女性基金/デジタル記念館http://www.awf.or.jp/

問題収集のボールを投げつつ様子見

1991年5月東南アジア歴訪した海部俊樹首相は、シンガポールにて演説を行う。

ASEAN諸国訪問における海部俊樹内閣総理大臣政策演説 海部俊樹 1991年5月3日
今年は,太平洋戦争の開始から50年になります。この節目に当たる年に,私は,あらためて今世紀前半の歴史を振り返り,多くのアジア・太平洋地域の人々に,耐えがたい苦しみと悲しみをもたらした我が国の行為を厳しく反省するものであります。我が国民はそのような悲劇をもたらした行動を2度と繰り返してはならないと固く決意し,戦後40数年に亘り,平和国家の理念と決意を政策に反映する努力をしてきました。日本の国際的貢献への期待が高まっている今日,我が国民一人一人がアジア地域ひいては国際社会の平和と反映のために如何なる貢献ができるかを考えるに当たって,何よりも先ず日本国民すべてが過去の我が国の行動についての深い反省にたって,正しい歴史認識を持つことが不可欠であると信じます。私は,我が国の次代を担う若者達が学校教育や社会教育を通じて我が国の近現代にわたる歴史を正確に理解することを重視して,その面での努力を一段と強化することと致しました。
戦後,我が国は,平和憲法の下,専守防衛に徹し,他国に脅威を与えるような軍事大国にはならないとの基本理念に立って,日米安保体制を堅持し,節度ある防衛力の整備を図ることにより自らの安全を確保してまいりました。我が国は,歴史の反省にたって,このような平和国家の理念を堅持して参ります。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/exdpm/19910503.S1J.html

だが首相帰国後、坂本官房長官は「指導要領を見直す考えということではない。第二次世界大戦や、それよりさかのぼった時期について反省は必要という一般的な趣旨で言ったものだ」と早々トーンダウン。
55体制が瓦解し、政権交代した細川護熙首相は、村山政権の見解をひきつぐ。

所信表明演説 細川護熙 1993年8月23日
我々はこの機会に世界に向かって過去の歴史への反省と新たな決意を明確にすることが肝要であると考えます。まずはこの場をかりて、過去の我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことに改めて深い反省とお詫びの気持ちを申し述べるとともに、今後一層世界平和のために寄与することによって我々の決意を示していきたいと存じます。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/pm/19930823.SWJ.html

日本の過去行為について初めて「侵略戦争」と表現。
1994年3月訪中した細川首相は、李鵬総理との会談でこの所信表明に触れた。

日中首脳会談 細川護熙 1994年3月20日
われわれは過去において我が国の侵略行為と植民地支配がアジア諸国人民に耐え難い苦難をもたらしたことに対して深い反省とおわびを表明する。日本は過去の歴史を反省することを踏まえて、中国と未来に向けた日中友好関係を樹立するため一段と努力する。

と、いいつつも、核実験の自制や朝鮮半島情勢への協力など中国へ注文をつけた。
1994年3月金泳三大統領が来日し、晩餐会で明仁は挨拶。

金泳三韓国大統領歓迎宮中晩餐会天皇挨拶 明仁 1994年3月25日
我が国が朝鮮半島の人々に多大な苦難を与えた一時期がありました。私は先年、このことにつき、私の深い悲しみの気持ちを表明いたしましたが、今も変わらぬ気持ちを抱いております。戦後我が国民は,過去の歴史に対する深い反省の上に立って、貴国国民との間にゆるがぬ信頼と友情を作り上げるべく努めて参りました。
http://www.geocities.jp/nakanolib/choku/ch10.htm

「痛惜の念」がわかりにくいと批判されたことに配慮してか、「反省」という表現が初めて用いられた。
つづいて首相となった羽田努は、所信表明で細川政権と同じ認識を表明する。

所信表明演説 羽田努 1994年5月10日
我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたとの認識を新たにし、これを後世に伝えるとともに、深い反省の上に立って、平和の創造とアジア・太平洋地域の輝かしい未来の建設に向かって力を尽くしていくことが、これからの日本の歩むべき道であると信じます。

しかし永野茂門法務大臣「侵略行為という定義付けは間違っている」と発言。首相はこれを不適切であるとして法相に辞表提出させ、事実上の更迭となった。

村山談話前後の暴言・謝罪マッチポンプ

1994年7月、首相に就任した村山富一は談話を発表する。

内閣総理大臣談話 村山富一 1994年7月31日
1わが国が過去の一時期に行った行為は,国民に多くの犠牲をもたらしたばかりでなく、アジアの近隣諸国等の人々に,いまなお癒しがたい傷跡を残しています。私は、我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたことに対し、深い反省の気持ちに立って,不戦の決意の下、世界平和の創造に向かって力を尽くしていくことが、これからの日本の歩むべき進路であると考えます。
3いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思います。我が国としては、このような問題も含め、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、関係諸国等との相互理解の一層の増進に努めることが、我が国のお詫びと反省の気持ちを表すことになると考えており、本計画は、このような気持ちを踏まえたものであります。

中韓は「おわび」「反省」の明言は評価したが、そのことばに具体性がないことを指摘した。
また内閣から異論がでる。桜井新環境長官が侵略戦争をしようと思って戦ったのではないと思っている。よかれと思ったことでも迷惑をかけることが多いので全体のことはわびる必要がある。だが日本だけが悪いという考え方で取り組むべきではない。」「アジアは植民地支配から独立し、教育も普及して識字率も高い。経済復興の勢いが出てきて民族活性化につながった」と発言し即日撤回したが「(羽田〜村山と連続した)閣僚の歴史歪曲発言」として中国にまで発火、首相は不適切と辞表受理して、事実上の更迭。
翌年、戦後60年を迎えて首相は、侵略と植民地支配についての謝罪を国会決議として実現させようとしたが、与党3党間でも纏まらず、表現の後退したものとなった。「終戦五十年決議」「不戦決議」といわれるもの。

歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議 衆議院 全文 1995年6月9日
本院は、戦後50年にあたり、全世界の戦没者及び戦争等による犠牲者に対し、追悼の誠を捧げる。
 また、世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。
 我々は、過去の戦争についての歴史観の相違を超え、歴史の教訓を謙虚に学び、平和な国際社会を築いていかなければならない。
 本院は、日本国憲法の掲げる恒久平和の理念の下、世界の国々と手を携えて、人類共生の未来を切り開く決意をここに表明する。
右決議する。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JH/19950609.O2J.html

しかし衆議院での採決には自民党員の中からも欠席者が出る程に混乱し、衆議院可決したのみで参議院では提案されなかった。そして記者会見で島村宣伸文部大臣が、先の戦争が侵略戦争かとの質問に対して、「戦争はどちらかが相手を侵し勝負するわけで、侵略か進出かでないかは考え方の問題だ。優勝劣敗で勝った方が侵略するということではないか。一方的に日本だけがそういうことを行ったならば、この問題は突き詰める問題だが、世界にはいろんな事例がたくさんある。少しでも自分たちが間違っていると思ったら、国際貢献に形を変えて報い、償いをしていく方が前向きだ」と発言したが、マスコミの避難をあびて事実上の発言撤回。
それを受けて中国外交部は8月13日「短期間内に日本の閣僚がまたも歴史事実を歪曲する発言を行ったことを、我々は遺憾に思っている。国際社会は日本軍国主義の侵略の歴史についてとっくに定説を下している。歴史に正しく対処することが日中関係の重要な政治的基礎である。日本政府がこの問題を高度に重視し、日中友好協力関係に正常な発展に水をさすようなことを避けるように希望する。」とコメント。
この経過を踏まえて、内閣総理大臣談話を発表。これがのちのちの「村山談話」といわれるものであるが、最近「村山談話」が取りざたされる時の多くは、先の「終戦五十年・不戦決議」もまったく無視され、首相が一方的に談話を発表したかのごとき論調となっている。

戦後50年に向けて村山内閣総理大臣の談話 村山富一 全文 1995年8月31日
明年は、戦後50周年に当たります。私は、この年を控えて、先に韓国を訪問し、またこのたび東南アジア諸国を歴訪しました。これを機に、この重要な節目の年を真に意義あるものとするため、現在、政府がどのような対外的な取組を進めているかについて基本的考え方を述べたいと思います。
1.我が国が過去の一時期に行った行為は、国民に多くの犠牲をもたらしたばかりでなく、アジアの近隣諸国等の人々に、いまなお癒しがたい傷跡を残しています。私は、我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたことに対し、深い反省の気持ちに立って、不戦の決意の下、世界平和の創造に向かって力を尽くしていくことが、これからの日本の歩むべき進路であると考えます。
 我が国は、アジアの近隣諸国等との関係の歴史を直視しなければなりません。日本国民と近隣諸国民が手を携えてアジア・太平洋の未来をひらくには、お互いの痛みを克服して構築される相互理解と相互信頼という不動の土台が不可欠です。
 戦後50周年という節目の年を明年に控え、このような認識を揺るぎなきのもとして、平和への努力を倍加する必要があると思います
2.このような観点から、私は、戦後50周年に当たる明年より、次の二本柱からなる「平和友好交流計画」を発足させたいと思います。
 第1は、過去の歴史を直視するため、歴史図書・資料の収集、研究者に対する支援等を行う歴史研究支援事業です。
 第2は、知的交流や青少年交流などを通じて各界各層における対話と相互理解を促進する交流事業です。
 その他、本計画の趣旨にかんがみ適当と思われる事業についてもこれを対象としたいと考えています。
 また、この計画の中で、かねてからその必要性が指摘されているアジア歴史資料センターの設立についても検討していきたいと思います。
 なお、本計画の対象地域は、我が国による過去の行為が人々に今なお大きな傷跡を残しているアジアの近隣諸国等を中心に、その他、本計画の趣旨にかんがみふさわしい地域を含めるものとします。
 この計画の下で、今後10年間で一千億円相当の事業を新たに展開していくこととし、具体的な事業については、明年度から実施できるよう、現在、政府部内で準備中であります。
3.いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思います。
 我が国としては、このような問題も含め、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、関係諸国等との相互理解の一層の増進に努めることが、我が国のお詫びと反省の気持ちを表すことになると考えており、本計画は、このような気持ちを踏まえたものであります。
 なお、以上の政府の計画とあいまって、この気持ちを国民の皆様にも分かち合っていただくため、幅広い国民参加の道をともに探求していきたいと考えます。
4.また、政府としては、女性の地位向上や女性の福祉等の分野における国際協力の重要性を深く認識するものであります。
 私は、かねてから、女性の人権問題や福祉問題に強い関心を抱いております。明年、北京において、女性の地位向上について検討し、21世紀に向けての新たな行動の指針作りを目指した「第4回世界婦人会議」が開催されます。このようなことをも踏まえ、政府は、今後、特にアジアの近隣諸国等に対し、例えば、女性の職業訓練のためのセンター等女性の地位向上や女性の福祉等の分野における経済協力を一層重視し、実施してまいります。
5.さらに、政府は、「平和友好交流計画」を基本的に据えつつ、次のような問題にも誠意を持って対応してまいります。
 その一つは在サハリン「韓国人」永住帰国問題です。これは人道上の観点からも放置できないものとなっており、韓国、ロシア両政府と十分協議の上、速やかに我が国も支援策を決定し、逐次実施していく所存です。
 もう一つは、台湾住民に対する未払給与や軍事郵便貯金等、長い間未解決であった、いわゆる確定債務問題です。債権者の高齢化が著しく進んでいること等もあり、この際、早急に我が国の確定債務の支払を履行すべく、政府として解決を図りたいと思います。
6.戦後も、はや半世紀、戦争を体験しない世代の人々がはるかに多数を占める時代となりました。しかし、二度と戦争の惨禍を繰り返さないためには、戦争を忘れないことが大切です。平和で豊かな今日においてこそ、過去の過ちから目をそむけることなく、次の世代に戦争の悲惨さと、そこに幾多の尊い犠牲があったことを語り継ぎ、常に恒久平和に向けて努力していかなければなりません。それは、政治や行政が国民一人一人とともに自らに課すべき責務であると、私は信じております。
http://www.kantei.go.jp/jp/murayamasouri/danwa/asia-danwa.html

これに対して中国外交部は「我々は『8・15』にあたって、村山首相が日本政府を代表し、過去の歴史について談話を発表したことに留意している。我々は、過去の植民地支配と侵略の歴史について深く反省し、アジア各国人民に謝罪した日本政府の姿勢は積極的なものだと考える。」と表明した。しかし韓国では金泳三大統領が、「過去に比して大きく前進」したものの閣僚問題発言が続いたことで「満足できるものではない」と酷評。10月には韓国国会で「日韓併合条約が当初から無効だったことを認めることを日本に求める決議」が可決。11月江藤隆美総務長官が「日本の朝鮮植民地統治には良いこともした」と発言していたことが明らかとなり、さらに日韓は緊張し、総務長官は辞任した。
これ以降、歴代首相は歴史認識については「村山談話を踏襲する」という趣旨を明言し、8月15日の全国戦没者追悼式では、毎年アジア諸国への〈謝罪〉のことばが首相式辞として述べられるのが慣習となった。

とりあえず1歩すすんで纏めようとした共同宣言

1996年6月、橋本龍太郎首相が訪韓する。

日韓共同記者会見 橋本龍太郎 1996年6月23日
例えば創氏改名といったこと。我々が全く学校の教育の中では知ることのなかったことでありましたし、そうしたことがいかに多くのお国の方々の心を傷つけたかは想像に余りあるものがあります
また、今、従軍慰安婦の問題に触れられましたが、私はこの問題ほど女性の名誉と尊厳を傷つけた問題はないと思います。そして、心からおわびと反省の言葉を申し上げたいと思います。
http://www.kantei.go.jp/jp/hasimotosouri/speech/1996/kisya-0625.html

1996年7月29日に、日本遺族会会長でもあった橋本は中曽根以来11年ぶりに首相として靖国神社参拝した。私的参拝であることを橋本首相自身が表明し、8月末に改めて歴史認識について村山談話を踏襲していることを明言したが、反発を呼んだ。

売国際経済懇話会におけるスピーチ 橋本龍太郎 1997年8月28日
私は、我が国が、歴史の教訓を学び、まさに、「前事を忘れず、後事の戒めとする」という視点が広く国民の中に定着していると確信しております。私自身も一昨年村山前総理が発表した内閣総理大臣談話、すなわち「植民地支配と侵略によって、多くの国々、取り分けアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」た「歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明」するとの考えと同じ考えを持っています。この内閣総理大臣談話を決定したとき、私も内閣の一員でございました。日本国内の一部に中国側の感情を刺激しかねない発言があったとしても、日本という国が将来、軍事大国にならず平和国家としての道を歩み続ける決意であることは、我々日本人にとっては、自明なことであると考えます。しかしながら、自らに明らかなことではあっても、中国を始めとするアジア諸国に不信が生まれないような努力は弛まなく続けていく必要があります。
http://www.kantei.go.jp/jp/hasimotosouri/speech/1997/0829soriyomiuri.html

1996年8月7日真宗教団連合靖国神社公式参拝中止の要請」、9月6日日本福音同盟「靖国神社「公式」参拝への抗議」など国内宗教団体から相次いで批判声明が出される。また1997年4月には愛媛県靖国神社玉串訴訟の最高裁判決で、参拝料公的支出の違憲が確定した。

1997年9月訪中して演説、質疑応答では「歴史を歪曲し、また中国国民の感情を傷つけるような発言」への意見を問われる。

中華人民共和国行政院における橋本総理大臣演説 橋本龍太郎 1997年9月6日
過去に不幸な一時期があったこともまた事実であります。日本政府は、一昨年の内閣総理大臣談話で、過去の歴史に対する認識を明らかにいたしました。私自身も内閣の一員としてその作成に携わったわけであります。我が国としてはそこに示された厳しい反省を踏まえ、過去を直視し、歴史に対する認識を深め、未来を切り開くための対話と協力を進めていきたいと思います。
質疑応答:日本をはじめ各国の中には、いろいろ異なることをいう人がいる。それが日本の制度だということは、是非私は理解していただきたいと思うんです。その上で、それが日本政府の、多くの、圧倒的に多くの日本人国民の本意でないということを明確に申し上げたいと思います。日本政府は、第二次世界大戦敗戦の日から五十周年の1995年、内閣総理大臣談話という形をとりまして、我が国として、過去の日本の行為が中国を含む多くの人々に対し、耐え難い悲しみと苦しみを与えた、これに対して深い反省の気持ちの上に立ち、お詫びを申し上げながら、平和のために力を尽くそうとの決意を発表しました。私自身がその談話の作成に関わった閣僚の一人です。そしてこれが日本政府の正式な態度である、立場であることを繰り返し申し上げたいと思います。そしてこのことは首脳間における論議の中でも、中国側に私も率直に申し上げ、李鵬総理も私の発言に完全に同意すると、そう言って頂きました。そして、ここで一つ申し上げたいことはこの記者会見が終わりますとすぐに、私は戦後の日本の総理として初めて東北地方を訪問させていただきます。そして、9・18事変記念館の博物館も見せて頂くつもりでいます。これはまさに過去の歴史を直視した上で、将来にむけての友好協力の実をあげたい、そうした思いからこういう日程を選んである、そういう点も、是非ご理解いただきたいと思います。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/kiroku/s_hashi/arc_97/china97/kaiken.html

1998年1月来日した英国ブレア首相に橋本総理が、第2次世界大戦中の英国人捕虜に対する日本軍の取り扱いについて謝罪した。

報道官会見要旨 外務省 1998年1月13日
(報道官)元英国人戦争捕虜の一部の方々は、既に日本において訴訟を起こしており、その判断については司法に委ねるということである。今度の両首脳の会談においてこの元英国人捕虜問題について話し合われたが、英国においては色々な反応振りがあるようだ。(重要なことは)橋本総理大臣と橋本内閣が痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを持っているということを直接ブレア首相に表明したことである。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/hodokan/hodo9801.html#3-F

オランダのベアトリクス女王は、1991年の来日時の歓迎宮中晩餐の会挨で「日本のオランダ人捕虜問題は、お国ではあまり知られていない歴史の一章です」と指摘していた。アジア女性基金オランダ人被害者への事業を行うに当たりオランダ事業実施委員会(PICN)側から要請により、オランダのウィレム・コック首相へ、従軍慰安婦問題についての政府責任が明記された書簡が送られた。

コック首相宛書簡要旨 橋本龍太郎 1998年7月15日
我が国政府は、いわゆる従軍慰安婦問題に関して、道義的な責任を痛感しており、国民的な償いの気持ちを表すための事業を行っている「女性のためのアジア平和国民基金」と協力しつつ、この問題に対し誠実に対応してきております。
私は、いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題と認識しており、数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての元慰安婦の方々に対し心からのおわびと反省の気持ちを抱いていることを貴首相にお伝えしたいと思います。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/hashimoto.html

1998年8月江沢民国家主席が、在外大使などを集めた席上で「(日本に対する) 歴史問題は終始強調し、永遠に語らなくてはならない」と述べていたことが後に明らかになった。
1998年10月金大中韓国大統領が来日し、小渕恵三首相と共同宣言を発表。

日韓共同宣言 1998年10月8日
2.両首脳は、日韓両国が21世紀の確固たる善隣友好協力関係を構築していくためには、両国が過去を直視し相互理解と信頼に基づいた関係を発展させていくことが重要であることにつき意見の一致をみた。
小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/nikannkyoudousenngenn.htm

日韓基本条約』でも過去の言及がなかった、日韓の外交公式文書として初めて「反省」「お詫び」が公言された。金大統領と小渕首相は、しばしば電話会談を行うまでになっていた。

小渕内閣総理大臣・金大中韓国大統領 共同記者会見録 1998年10月
両国関係の過去及び現在そして未来を語る中で、私は日本政府を代表して、我が国が過去の一時期、韓国国民に対し、植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受け止め、これに対し痛切な反省と心からのおわびを申し上げました。この気持ちは多くの日本国民が共有していると信じております。
http://www.kantei.go.jp/jp/obutisouri/speech/1998/1008nikkan.html

同大統領への歓迎晩餐会で、明仁が挨拶。

金大中韓国大統領歓迎宮中晩餐会天皇挨拶 明仁 1997年10月8日
一時期、わが国が朝鮮半島の人々に大きな苦しみをもたらした時代がありました。そのことに対する深い悲しみは、常に私の記憶にとどめられております。
http://www.geocities.jp/nakanolib/choku/ch10.htm

挨拶はかなり間接的な表現にとどまったが、「遺憾」と「深い悲しみ」がその時々で発言されてる模様。
1998年11月江沢民主席が「日中平和友好条約」締結20周年として中国国家元首としてはじめて来日し、共同宣言が発表された。

中共同宣言 1998年11月26日
双方は、この地域の平和を維持し、発展を促進することが、両国の揺るぎない基本方針であること、また、アジア地域における覇権はこれを求めることなく、武力又は武力による威嚇に訴えず、すべての紛争は平和的手段により解決すべきであることを改めて表明した。
双方は、過去を直視し歴史を正しく認識することが、日中関係を発展させる重要な基礎であると考える。日本側は、1972年の日中共同声明及び1995年8月15日の内閣総理大臣談話を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した。中国側は、日本側が歴史の教訓に学び、平和発展の道を堅持することを希望する。双方は、この基礎の上に長きにわたる友好関係を発展させる。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/nittyuukoudousenngenn98.htm

8月に在外大使などを集めた席上で江主席は、日本に対して「歴史問題は終始強調し、永遠に語らなくてはならない」と述べていた。盛り込まれる文言について来日前から散々もめた結果、宣言には「おわび」は盛り込まれず、小渕首相が口頭で「おわび」表明することで調整がついた。
一か月前の日韓共同宣言より後退し見劣りした表現に、江主席は「日本軍国主義は全面的な対中侵略戦争を発動し、中国の軍民3500万人の死傷者、6000億ドル以上の経済損失をもたらし」「日本国内には地位の高い人を含めて、一部の人々が常に歴史を歪曲し、美化している」と非難し、日本政府に対して「歴史の否定と歪曲を真に封じ込めるよう努力することを希望」して「正しい歴史観で青少年世代に対する教育と指導を強化する」ことを要求した。
2000年2月21日来日したウィレム・コック・オランダ首相と会談した小渕首相は、第二次世界大戦時の日本の行為について「村山談話」を引き継ぐ形で「多大の損害と苦痛を与えたことに改めて痛切な反省の意」を表した。
・日本の歴史認識問題資料集
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/JH/index.html