理想のカタチ

id:lepantoh:20040513#p1で紹介されていた、高原英理『少女領域』『無垢の力―「少年」表象文学論』。こ、これは、、、読まんでどーする?と思いつつ、やっと機会あって、読んだ、読みましたよ!
表象、近代自我、主体/客体、忖度関係(みんなって誰問題)、、いろおんな考えなきゃならんコトがつまってて、濃いいぃ〜。セックス・コンシャスはやっぱり実存の要であるんだよなぁ。
以下、読書ノートとして。

憧憬の倫理

弱者であることに価値を見いだし「無垢」を最高の価値とし、その唯一の通路としての憧憬が「憧憬の倫理」として、〈少年〉〈少女〉への憧憬というカタチをとおして表現される。情動を自己の理想とする他者に向けることによって「憧憬」という感情を発生させる。
「他者からは欲望される客体でありながら、自分は欲望の主体でない者同志の関係」とする。客体の価値は、すべて外部の主体からの「扱われ方」によって決まり、愛されず欲望されない客体は無価値となる。

〈少年〉

近代日本文学における〈少年〉的自己愛の表出は、自己の客体性の自覚からはじまった。「憧憬の文学」は、後には他者欲望の体系として語られ続けてきた性愛を、自己憧憬の体系として編成し直し客体性を魅惑的要因=自己愛として提示する。客体性自己愛とは、他者との関係において主体たりえない客体者が他者に対する「権力の獲得」という方法をとらずに、自己価値を見いだそうとした結果発生したものである。無垢が欲望主体を生成し、それを浄化し肯定する。欲望の主体となることは醜い。自己の欲望をあらわにする「主体」は忌避されるべきもの。理想的客体にとって自我は汚れでしかない。このような「客体的自己愛」は折口信夫によって文学的に発見されたとみる著者は、そうした「主体/客体」自己の在り方の変遷を近代文学テキストをひきながら解明していく。

〈少女〉

〈少女〉という〈個〉を支える思想が成立したのは、かっての稚児の流れをくむ〈少年〉の無垢・美観・魅力が少女にシフトし、女性人格が想定されはじめた大正半ばでであるとし、その要は「自由と高慢(誇り)」への願望(自己愛)であるとし、それを「少女型意識」と著者は名付けた。「少女型意識」が生成する自己愛とは、獲得への欲望の否定と変身願望の肯定である。
野溝七生子『山梔』の主人公は、「意識はいかなる形態でもとることができ、何にでもなれるという感覚、自己が多様でありうるという感覚、それが外部から固定されず、自在に選択できるという感覚、また次に自己であるかさえ予測出来ないという感覚、これらを抑えずにいられる状態」をもってして自由というカタチで自己意識とその多様性は発見される。しかし現実のシステム(明示的国家/家制度、〈男〉社会)はただ一つの主体自己にそれを担わせようとする。それを精神の貴族性=高慢をもってして「女性ジェンダー」を撥ね付けようとする物語である。
そうやって自己を意識した〈少女〉が家制度をとびだし街に出て性交・妊娠という生理・身体性を帯びたとき少女貴族精神はどうなるのか、性交において〈女〉を引受けどもジェンダー(性的役割)意識/精神においては〈女〉を拒否する状態→両性具有性への通路を保持することによって得る意識上の自由といったことが模索された戦前。
戦後、民主主義によって建前的でも〈個〉の自由はともかくも保障されたが自前で開拓せねばならない「自尊心」、それを「予め選ばれた存在」文化・経済資本豊かなそんな選民思想に支えられた優越・強者な精神エネルギー、貴族主義でいなした倉橋由美子森茉莉らの60年代。〈男〉性原理的精神主義が敗北した後、かわって出自/実存の絶対性は遠くにおいやられてひたすら「カワイイ」「オシャレ」な感性価値をおいた欲望の家父長制&階級保護に拠らない自己愛、しかし「決して勝てない戦い」とシニックになりつつも生き生きとした明るさ楽しさをひたすら追いかける80年代。
そして松浦理英子『ナチュラル・ウーマン』は、マゾヒズムを肯定的に提示する。〈男〉的なもの(制度的恋愛関係)を一切排除した、〈個〉対〈個〉の行為としての「恋愛性愛」の探求がなされる。すなわち、主導権を相手に譲り渡すことによって得られる自己放棄の「無垢」。しかし本当の「無垢」など在りえない為、関係の中での「役割」として不意に出現する幻想にとどめおかれる。「主体であること」は、実のところ、欲望的で差別的であることであって、汚れをひきうけるべきことである。好き/嫌い/排除という他者への価値決定&選別という一方的意味づけは、決定者=主導権保持者としての道徳的劣等性を覚悟しなければならない。それは生臭く「無垢」から遠い。それを、どこか意識関与しない「運命」的な自意識を越えた不可知の領域からの命令とその僕であるかのようなポジションをとり、決定主体責任を消し去る。それゆえ無垢であるために相手がすべての汚れを追わなければならない者の存在は、それに触れる者を傷つける。それこそが〈男〉ジェンダー獲得に拠らない自尊心、「少女体意識」の究極の自己像である。
大原まり子『ハイブリッド・チャイルド』は、SFという仕立てで意識拡大に拠る「身体変容」を描く。ここでは、かっての〈父〉/〈男〉社会支配からはすでに自律する強さを獲得し、世界の美しさを堪能する〈個〉の一回性の悦びにひたるが、それを阻害する〈母〉性=成人女性的なもの=生の連続(ワン・オブ・ゼム)への嫌悪/葛藤が示され、身体的全能(オンリー・ワン)が図られる。
60〜70年代の自尊心闘争をへて自信を獲得した〈少女〉は、他者に惹かれることを隠さず、あとはどうやって他者に支配されることなく、精神&身体的自由を保持しつつ他者を得るのかという段階に達したのである。

欲望対象

ルサンチマンに満ちた権力欲望が自己に「濁り」を与えそれに耐えきれなくなると〈少女〉に浄化をもとめ欠落感を埋める室生犀星『或る少女の死まで』では、非人格で清浄と救済の巫女としての〈少女〉礼賛により、自らの生なき自己肥大矛盾は隠蔽される。
珍しく〈少女〉との交渉を描いた稲垣足穂『菟』では、当初は〈少年〉を想定してたのを〈少女〉に変換したものだという。偽装されたそれを犀星の描く〈少女〉と比較していく。そこでは清浄と救済の無個性な巫女ではなく、未来の破滅の象徴となる個別な今ココの特別空間を断片的に形成する。また、気が付けばそばにいたおとなしい=「うさぎ」として獲得への苦悩や葛藤もない。それが〈少女〉であれ〈少年〉であれ、欲望の対象物としての役割しか求められない無意志・無気力・無力・無垢な非人格状態に留め置かれる。

文化的背景

少年愛」とは単なる性愛の分類上の名称ではなく、固有の背景によって当事者の意識・価値観・欲望を規定した文化を意味する。
明治以後、固有の欲望と意志をもち、他者と強豪し葛藤し、融合することのない、西洋近代の自己主張型「主体」に対し、日本の意識(精神)は強い嫌悪を感じてた。
「肉体を介さない恋愛」が共同体的規範を超越するものとして認識されるとき、その機能は宗教のそれに等しくなる。

西欧列強に対抗しようとするとき国民的主体形成は欠かせないし、現実としてその獲得欲望を放棄することはできない。だとすれば何らかの客体的「無垢」により、多数の「主体」の「汚れ」を払拭したいという発想が現れても不思議はない。そしてそれは『軍人勅諭』というシステムとして姿をあらわす。
…そこでは清浄の原点、世俗を越える特異点としての少年=天皇だけが唯一の完全客体である。
…念者たち=軍人はその「誠心」という愛を少年=天皇にいだく限りにおいて主体を持つことを許される。獲得欲望を抱く主体はそのままでは「汚い」。だが、天皇の無垢に仕える軍人の場合ならば、自身がいだく様々な獲得欲望によって当人がいかに「汚れ」てもかまわない。主体性のゼロ状態が少年=天皇の客体性という「無垢」によって絶えず確保されているからである。

軍人勅諭』は、天皇を〈善悪の彼岸〉にある「神」と考え、論理的・論理的正誤を判断してはならないこと、善悪や利害の判断を一切停止してただただ畏み敬うだけの対象として考えるべきと諭す。
そして、天皇と軍人の関係は「自他の区別のない無葛藤な志高の関係」のような愛と至福に満ちた体裁であり、飽くまでも論理ではなく清らかさと陶酔による支配であり、その「清らかさ」は、中心にある者が主体をあらわにしない限りにおいて保たれるが、中心者が命令者に転じた瞬間、瓦解する、と述べる。
もっともそれは、院政政治がシステム化した中世に成立したもので、生臭さ=政治から切離された純粋な権威・神聖の理想型としての「幼童天皇」にあるとし、さらにその時代の芸能の理想・理想的人物としての「稚児」ではないかと示唆する。
そうした性質から、主体的人格を持つ成人の指導者ではなく、嬰児のように受動的な、無垢かつ無力の神として待望される「無力な天皇」に対して、「絶対に無垢なる客体そのもの」であることを要求するシステムが、主体ナキまま稼働していく。→中心が無である天皇
〈少女〉とはモダニズムの別名であると『少女領域』の最後で著者は告げるが、「皇后」にはナゼカ一言も触れていないで終わっている。これはこの2冊の対をなす本にとっては大変惜しい点である。「天皇」とは違って、「皇后」というカタチそのものが近代に「天皇」の対として作り出された、〈少女〉の実現型〈乙女〉なるもの総体であるからだ。
若桑みどり『皇后の肖像―昭憲皇太后の表象と女性の国民化』川村邦光『オトメの行方―近代女性の表象と闘い』

「私でありたくない私」

ああぁ、どこぞで何度となく聞いたセリフだぁ(苦笑)id:hizzz:20040210#p3。同性愛志向ではなく「私でありたくない私」の告白、それが三島由紀夫『仮面の告白』の内容であると著者はいう。自己と絶対に異なる容姿性格行動&欲望を持つ「他者」な故に愛し憧れる。そうするといつまでも他者を憧憬しつつ他者ならぬ自己で終わる他はない。しかし、こまったことにこの愛は、「憧れのこのひとになりたい!」変身願望という欲情のカタチをとる。そりゃ矛盾もいいトコ無理難題!だから、ここには「幸福」な帰結はない。そういう遂行的矛盾に埋没する自己愛を抱きしめる他はない、てゆーか、そゆカタチでしか自己愛を抱きしめられない(カタチにならない=確信できない)といったほうが正しいのか。。。
ちなみに、著者に拠れば『仮面の告白』の主人公は、〈少女〉的な自尊心を持つ女性にとっては最良の伴侶ともなる男性(だが時代背景によって自己美点を認識できないでいる)らしー。。。<ガンガレ(ちょー無責任)

戦闘美少女

さらに著者は歩を進める。斎藤環『戦闘美少女の精神分析』は、晩年三島天皇論と思想的裏付けのない相似であると看破する。
戦闘美少女の持つ、「無垢と攻撃性」は、中世の僧院において観音の化身として僧たちが崇めつつ犯す存在であった稚児と等しい役割をになうものであると。そう、日本の仏教美術の大半はヲタ的エロそのものなんですよね〜。
戦後日本の米国式恋愛様式の浸透・強迫によって、男性の〈少女〉を獲得し同一化する志向は排斥された。谷崎、川端、乱歩といった「自由と高慢」を求める〈少女〉意識を共有するような大正期に自己愛を育みえた〈少年〉は既になく、今あるのは「男性の幼児」が「未熟な青年」かのどちらかである。そうすると男性は自らの意識だけでは「自由と高慢な〈少年〉」を発見することができない。彼らにとって〈少年〉とは惨めで半人前の見たくない自己でしかないからである。だめぽ。。。
そうして自意識が排除されたからこそ、「自由と高慢」を独占してる〈少女〉獲得願望に彩られた〈男〉意識が、今むしろ拡大していると述べる。う、う〜む。このことが今日の「モテない問題」「ひきこもり問題」などが青年(大きいお友達?)アイデンティティ上の大きな比重を占める要因となるのであろうか?
産む性である〈母〉の対極にある〈少年〉に価値あるものを見いだすのは、「悪しき〈母〉」というのを意識してる者でないと無理であると、著者は結論づける。

自分セカイの中心で愛を叫ぶ

女性は〈少女〉理念を様々なケースで吟味することで欲望とその形態は多層多重化して拡散した主体=自由を手にいれる。一方男性は〈少年〉理念を喪失することによって客体化し自由を手にいれ、「欲望とその形態」ソレは〈少女〉なるものとして単一化することで主体を持ち、幻想の単一〈少女〉を自己理念として他者異性を追い求めるが故に、現実の女性(&自己実在)から離れていく…ということっすかね。
また拡散しすぎた〈少女〉理念を抱えた女性は、現実の男性には届かずカミ合わない、と。両者が同等レベルで主体を持ち対峙する状態は、まだ先なのでしょーかねぇ。。。

追補

lepantohさんも述べておられるが、単なる「ボーイズラブ」「少女萌え」という表層意識でこの2冊の高原本にあたると、その無意識の中にあるセックス・コンシャスで処理してきた安全地帯の自意識のヌルさ(建前=嘘)をつっこまれることにもなる。だからワタクシとしては面白ろかったんだけど。


高原本趣旨重要確認事項
●〈少女〉〈少年〉は、思想としての性
実際の性別/年齢(10代)をただちに対象/反映するものではないし、「男子/女子」という産まれながらの生物学的性(sex)で固定された性別役割型発想(Gender)とも違う


●〈少女〉と〈少年〉は追求理念「自由と高慢」「無垢」で繋がる双子的存在
「空想の性であること。それは、世界のすべてに対してマイナーであることを意味する。 ならば必敗の営為である。だが、そうした意識があるということに関しては妥協するな。 わたしたちは、ひとりひとり、固有の性に生きる異様な者たちであるはずだ。」
故に上記読書ノートでは『少女領域』と『無垢の力』の両テイストを混在して記述。


●〈少女型意識〉と、少女小説的生理とは、本質的に異なる
「「少女」としての自己規定が強すぎ、性を越境していく契機に乏しいため、少女型意識的とは言えないものが多いように思われる。少女が「少女らしく」なろうとし過ぎるとかえって「少女型意識」を圧迫してしまう。」
類型化されてその中で展開するジャンル小説の主人公達とは似て非なるものであるということ。


●作品世界だけ読んでいればいいというスタンス=文学作品主義は批判
著者は「弱く尊い」とする無垢への想いに存在の可能性をさぐる一方で、「無垢」に添い遂げようとする自己愛への危惧と困難を指摘。


kdgcさんによる『少女領域』書評
http://d.hatena.ne.jp/kdgc/20031019

gosyuさんによる『少女領域』書評
http://d.hatena.ne.jp/gosyu/20040118#p1

lepantohさんによる『無垢の力』書評
http://d.hatena.ne.jp/lepantoh/20040513#p1

岩松正洋さんによる『無垢の力』書評 週刊書評
http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/syohyo/191.html

Atoriさんによる『無垢の力』書評
http://d.hatena.ne.jp/Atori/20040525

lepantohさん&Atoriさんによるやりとりコメント欄
http://d.hatena.ne.jp/lepantoh/20040525

『無垢の力』と『プラネテス
http://d.hatena.ne.jp/Atori/20040530

id:herecy8さん経由
 マリみてブームとロリコンの精神性の関わりについて
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20040525